2009年 03月 06日
3年近く入院の連続でしたが、今月(3月)中に自宅に帰る目途がたちました。気にはなっていましたが、気が付けばながい休眠状態。いろいろ手持ちの問題も抱えました。
再開へ向けて一言メッセージを入れておきます。
再開へ向けて一言メッセージを入れておきます。
# by takano-kk | 2009-03-06 19:43
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2009年 03月 06日
3年近く入院の連続でしたが、今月(3月)中に自宅に帰る目途がたちました。気にはなっていましたが、気が付けばながい休眠状態。いろいろ手持ちの問題も抱えました。
再開へ向けて一言メッセージを入れておきます。 # by takano-kk | 2009-03-06 19:43
2007年 07月 01日
あのハリウッド俳優のメル・ギブソンが「ブレイブハート」「パッション」などの作品を監督し、それに続き「アポカリプト」という映画が封切られた。
舞台は16世紀スペイン人によるマヤ・アステカ文明の征服期のユカタン半島マヤ人の社会である。 あらすじは、族長の息子として妻・幼い子と平和に暮らしていたジャガー・バウという若き戦士が、ある日、マヤ都市国家の傭兵隊の襲撃で村人ごと捕囚として年に送られ、宗教儀礼の生け贄として処刑されるところを、免れて脱走して妻子のもとに帰り着くという話である。 (拉致される村人) ![]() 時代考証はそれなりになされえいるようであるが、映画の狙いはギブソンがいうように「本能に訴える映画を作りたかった」というところにあって、妻子の待つもとへの決死の帰還を果たす男の物語というところにあるようである。 ということで、スピーディなアクションと場面展開がこの映画の見所であろうとおもう。 (主役のジャガー・バウ) ![]() # by takano-kk | 2007-07-01 12:11
2007年 01月 25日
数日前についに念願の映画「硫黄島からの手紙」を観ることが出来た。
昨夜の報道でこの映画は、アカデミー賞候補にノミネートされたと知った。むべなるかなである。 この映画は尻上りに評価を高めているようで、映画館では中高年の観客の姿が目立った。 鑑賞後の感想は月並みながら、クリント・イーストウッドはハリウッド映画の割には日本人をよく描き上げていると思った。詳細には色々論うことはできようが、秀作であると思う。 この映画の随所で栗林司令官の軍人としての生き様や死生観がみられ、「死して虜囚の辱め」をきらう将校達の姿をえがき、中には生きて還ることを願う兵士も登場させている。 私は、かって戦史をいくらか読んだことがあるが、戦史史家の著述、旧将校の回顧録が多く、戦いのうちにある生存の記録に接することは稀であった。 私はこのサイトにこの映画の感想を書こうと準備する中で「硫黄島」での生存者の「声」を何等知らないままに書こうとしていることに気付いた。 そこで書店に走り、昨年末発刊された『十七歳の硫黄島』秋草鶴次(文春新書)に、出会った。その本の「おわりに」を読んで、この方が、硫黄島戦の生還者(1023名ー「硫黄島協会調べ」)のお一人で、、2006年夏にNHKスペシャルで放映された「硫黄島玉砕戦ー生還者61年目の証言」の昭和2年生れの秋草鶴次氏の著述であることを知り、購入し、取り急ぎ読ませていただいた。 私はいままでにこの種の書物に接することはあまりなく、いわゆる「太平洋戦争史」の概説程度の知識しか持ち合わせていなかった。(高校生時代には戦記物を読んだ覚えはあるが……) そんなごとで、付け焼刃ながら少々「硫黄島」をまさぐりながらこの映画を思い返しているが、映画なのでなんともいえないことながら、この映画の場合、栗林中将の「生と死」観の重しが強いように思えた。 *栗林中将の手紙は『「玉砕総司令官」の絵手紙』吉田津由子編 小学館文庫参照 秋草氏の著作でそうかと肯かせる一節があった。 「死を覚悟して敵前に身をさらし、爆弾や鉄炮弾による直撃弾などで戦死する者の多くは「天皇陛下万歳!」と一声上げて果てた。重傷を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは「おっかさん」と絶叫した。負傷や病で苦しみぬいて死んだものからは「バカヤロー!」という叫びをよく聞いた。「こんな戦争、だれが始めた」と怒鳴る者もいた。 壕内では、たいがい「おっかさん」と「バカヤロー!」であった。地下壕の中での生活は、人間界の極限に挑戦しており、いかなる文字を並べてもその実情に迫ることは不可能である。」(「十七歳の硫黄島」謝辞より抜粋) この描写は一応、戦場で人が死ぬ時の描写として、人の口の端に膾炙されてきたことながら、読みながら、あらためて愚かな政治判断で引き起こされた戦争の戦場での終の場面へ合掌とやり場のない怒りの念が湧くのを禁じえなかった。 (アメリカ軍の硫黄島上陸作戦(1945年1月19日)ー当時の報道写真) ![]() 硫黄島の陥落で、アメリカの日本への戦略爆撃は、初めはナチスドイツのゲルニカ村爆撃、日本の重慶爆撃ととしてはじめられた都市無差別攻撃を、自らの戦略に組み込み、さらに上塗りし徹底したものとし、ついには広島・長崎への原爆投下への道を開くのである。 時に私は国民学校4年の、自分で言うのも恥ずかしながら、多感な「軍国少年」でありました。 (防備体制を視察する栗林中将) ![]() (映画「硫黄島からの手紙」の栗林中将役の渡辺謙) ![]() # by takano-kk | 2007-01-25 12:35
2006年 10月 28日
(硫黄島擂鉢山に星条旗を立てる米軍)
![]() この写真は各種の書籍、雑誌に載せられて、硫黄島の激戦での米軍の勝利を象徴する有名な写真である。 この映画の原作は「硫黄島の星条旗」ジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズの共著であるが、実は著者の一人、ブラッドリーの父のジョン・(ドッグ)・ブラッドリーは上記写真の星条旗を立てる被写体の米兵の一人であったことを、1994年父の死後に初めて知るという話が付いているのである。 映画は「硫黄島プロジェクト」第一部『父親たちの星条旗』(アメリカ側の視点で描く)と第二部『硫黄島からの手紙』(日本側からの視点で描く)の第一部で、ストーリーの概要は、太平洋戦争末期の硫黄島の陥落のモニュメント(記念物)となる、硫黄島擂鉢山山頂に星条旗を立てる5人の海兵隊員と1人の水兵の写真のエピソードに基づき、アメリカ側の視点で描こうというものである。 太平洋でのアメリカの戦いは、長引く戦いに国民の間にも厭戦の気配がたちこめ始めた。たまたま有力各紙に掲載されたこの一葉の写真が、国民の注視の的となるや、政府・軍部は士気高揚と戦時国債募集の利用の好機とばかりに彼等を国民的英雄として各種のセレモニーやキャンペーンを展開した。 一方、星条旗を立てる事情も錯綜があり、正確な同定もなく集められた、6人の中の生き残りとされた3人はこと自らの心情とは異なる行脚をするなかで、それに苦しんでゆくのである。 彼等にとって「英雄」扱いは唐突なもので、共に戦う戦友等となんの隔たりもない中から、突如英雄として振舞うことの戸惑いが、彼等を苦しめることになる。 戦後3人はそれぞれの重荷を背負って年老い、生涯を終わるが、その人生を何であったかとといかける作品となっている。 監督はクリント・イーストウッド、製作にはスティーヴン・スピルバーグも加え、脚本はポール・ハギス(その外にウィリアム・ブロイレス・Jrも加わる)の意欲作である。また、第19回東京国際映画祭のオープニング作品にもなった。 クリント・イーストウッドはこの作品の公開に先立ちその思いを、仏紙ル・モンドに次のような要旨のことを語っていることをasahi・com(10月20日付)は伝えている。 「ずっと前から、そして今も、人々は政治化のために殺されている。」とし、「硫黄島で戦死した米兵は平均19歳。15歳もいた。」と語り(当時彼も15歳)、彼は4年後の朝鮮戦争徴兵されてカリフォルニアで州兵に水泳を教えただけとし、後のヴェトナム戦争でも「若者を地獄へ送った」と距離を置いた発言をし、「米国が今ほど分断されたことはない。私はイラクへの介入は優先課題ではなかったと考える側だ」とブッシュ批判をしたうえ、「政治家たちは最前線にいる者の運命より、自らの権力を行使し、保持することに関心がある。」と断罪している。 *(硫黄島戦) 1945年2月19日海軍提督ニミッツ率いる7万5千が栗林中将率いる硫黄島守備隊2万3千とが戦う。上陸軍の作戦(3日間の砲爆撃、5日間の陸上戦)は大きく狂い、凄惨な激戦となる。 (日本軍戦死一万九千九百、戦傷千三十三計二万九三三名。米軍戦死六八二一名、戦傷二万八六八六名) まもなく、第二部が公開されるので、この映画が機良く(身体の都合)で観る事が出来るどうか判らないが、是非とも観たいものだと思っています。 イーストウッドの取り組みをみてみたいものです。 # by takano-kk | 2006-10-28 22:05
2006年 10月 11日
「終戦の詔書」
![]() 「不動のまま、玉音放送を聴く人々」(当時の新聞) ![]() 「玉音放送が流れ、宮城では……」(当時の新聞) ![]() (「一億総ざんげ」論)ーこの発想が戦争責任の所在を「うやむや」にし、戦後政治を何となく「うやむや」にぼかして今日に至らしめた源流の一つと思われる。 1945年8月28日(敗戦「終戦の詔書」から13日目)の東久邇宮首相がおこなった内閣記者団との戦後初の会見記事ー「朝日新聞」より(少々長いですが……) 「国体護持ということは理屈や感情を超越した固いわれわれの信仰である。祖先伝来我々の血液の中に流れている一種の信仰である。四辺(あたり)から来る状況や風雨によって決して動くものではないと信じる。 現在において先日下された詔書を奉戴し、これを実践に移すことが国体を護持することである。また一方詔書を奉戴し、また外国から提出してきた条項(ポツダム宣言のこと)を確実に忠実に実行することによってのみわが民族の名誉を保持する所以だと思う。…… ことここに至ったのはもちろん、政府の政策がよくなかったからでもあるが、また国民の道義がすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。」 1945年10月4日朝日新聞によると、山崎巌内相は「治安維持法」は堅持し、国体を批判する者は今後も断乎として逮捕する旨言明し、全警察陣の補強を今日の最大の問題と喋っている。 東久邇宮の「一億総懺悔」論は戦時中に国民の「戦意高揚」を叫んだ人々やいわゆる「進歩的知識人」、「労働組合」等を中心に、マスコミをも巻き込み「燎原の火」のように国民の間にひろがり、そのことは子供ながらに私も鮮明に記憶している。 敗戦の原因は「政府の政策がよくなかったからでもあるが」とし、一方「国民の道義がすたれたのも原因の一つ」として国民へも責任の一旦を担わせ、だから「軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬ」と、「戦争責任」の曖昧模糊な三段論法を全国に流布し、戦前の体制を維持することに腐心することになった。上記山崎内相の言明もその一つである。 国民に対して「国に殉じよ」=「国に命を差し出せ」と強制した「軍官民」の指導層が本当に上記のように「徹底的に反省し懺悔」していれば日本の戦後史は大きく様変わりしたのであろうが、歴史には「もしも」という設定はないので、これ以上敷衍しても仕方がない。 つまり、日本の旧支配層は多くの問題を含む「極東国際軍事裁判(東京裁判)」に「人身御供」的な「殉国者」を出して、その命脈を保った……と 私は見るのである。それが今日の「靖国」問題の大きな一面を成しているのである。現に当時の「軍官民」指導者の孫・曾孫世代が今日の政権機構の中で枢要な地歩を築いていることに我々はみてとることが出来る。そしてかって占領国から押し切られた「民主主義」受容=「押しつけ憲法」への押し戻しの好機到来と考える時代が訪れたかにみえる。(日本版ネオコンとよばれる人々の出現) *「反自虐史観」論者、憲法改正論者、やがて出てくるかもしれない「日本核武装」論者として存在するとおもわれる。 戦後の旧支配層の抵抗は続く、美濃部達吉博士等の民主主義体制達成に新憲法は不要という「憲法改正不要論」や、民主主義受容の憲法私案のほか各種の団体による「国体護持」を主体とした憲法案などが叢生した。 かたや、占領側は抵抗する日本政府に「ポツダム」宣言の履行を求めた。その要求の中心的部分は天皇制を残し、自由主義を基本にした「民主主義」憲法の制定であった。 1945年10月4日付総司令部の「自由の指令」がそれである。 *「自由の指令」は長くて転記困難なので、「検索」されたい。 ただ、それから6日後(10月11日)に就任したばかりの新首相幣原喜重郎がマッカーサーを表敬訪問した折の1945年10月12日付の朝日新聞は「明治憲法の抜本的改正にかんするマッカーサーの指示」として…… 「ポツダム宣言を履行するにあたり、日本国民が何世紀もの長きにわたって隷属してきた社会の秩序伝統を矯正する必要があろう。 日本民衆は、政府がその日常生活に立入って秘密に取調べを行い、その結果民衆を事実上の奴隷心理(殉国精神の事ー私の注)に陥れつつある事態から完全に解放されねばならず、また思想、言論、信教の自由を抑圧する一切の制限からも解放されねばならない。能率増進の仮面のもとに民衆に盲従を強制する要請を実行しその目的を達成せんがため、余は日本の社会組織における次のごとき改革を可及的速やかに実施せんことを貴下に期待する。」 これを受けて政府は消極的な反応をみせ、勅令、閣議決定などに拠らず、閣議了承という形式で国務大臣松本蒸治を委員長に「憲法問題調査委員会」を設置し、1945年12月8日衆議院予算委員会で、「1、天皇が統治権を総攬せられるという基本原則にはなんらの変更を加えないこと。このことは、おそらくわが国の識者ほとんど全部が一致しているところである。」に始まる「松本四原則」を発表し、1946年2月8日明治憲法の字句を若干修正した、他の諸試案の中で最も明治欽定憲法に近い「憲法改正要綱」なるものを占領軍総司令部に提出した。 それに対して、総司令部は受け入れの「全面拒否」し、日本政府に対して「最大限に考慮」することをもとめる「総司令部案」を1946年2月13日に提示した。 *骨子は「人民主権」・「象徴天皇制」・「戦争の廃棄」・「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表者トシテノ国家ニ帰属ス」など、今日の憲法に盛り込まれている諸原則が書かれていた。 政府は、2月18日に先に提出した「憲法改正要綱」を妥当なものとした、「補充説明書」を提出して抗弁するが、総司令部側は即座に拒否し、48時間以内に「総司令部案」に則した案を作るかどうかの回等を求め、「回答が無き時は「総司令部案」を直接国民に提示するがいいか」と迫った。 その後、政府は総司令部から数度の督促を受けながらいわゆる「三月二日案」という明治憲法から大きく後退した案を、総司令部は三月四日に政府から受け取り、その案を基に総司令部は「最終案」の共同研究会を提案し、研究会で徹夜の共同作業がおこなわれた。 *総司令部案の「人民主権」・「土地及一切の天然資源の究極的所有権」などは復活しなかったが、基本的人権などかなりの部分が復活した。 政府は3月6日この「最終案」を若干修正のうえ、「憲法改正草案要綱」として、天皇の勅語を付して発表した。マッカーサーは、同日この案の全面支持の声明をだした。 このような鬩ぎ合いの中で誕生した憲法であるが、今日、「占領下の押し付け」による憲法を改正せよという議論の中に、大きく欠落か無視された前提があることは論を俟たないと思うが、それは戦前の歴史に対する「歴史認識」がおおきく立ちはだかっているからに他ならない。 一つは憲法制定時に抵抗した旧指導層の存念が今日に継承されていることである。「私の祖父が」と事あるごとに鸚鵡返しにいう政治家をはじめ、孫・曾孫世代の血統的或いは思想的継承者が一気に登場している昨今、戦後教育の中での「歴史教育」の貧しさを痛感している今日である。受験教育によって「歴史認識」の部分はカットされ、経済発展至上の風潮、「美しい」山野は毀され、家族の紐帯も切れ切れにされて、家族の荒廃も「教育」制度の所為に帰せられ、 教育基本法(実は戦後ろくに守られていないのが実体、条文を知らない国民が大多数)の改正が「美しい国」つくりの特効薬のような議論さえおきている。 *最近の「地歴教科の間引き」で、卒業出来ない高校生が大量に出ていることが新聞紙上で喧騒れれているが、こんなことは近年のことではなく、受験教育至上の学校の体制にとっくに取り込まれ昔から行われ、この分野でかつやくすることが校長への近道の主なものとなっていることは隠れもない事実で、ことに学校のトップダウン体制が完成したこの20年ほど前からは校長は充分に承知し、施行しているのであり、教委の幹部も充分認識していたことであった。 そのことが、歴史教育の軽視を生み、生徒の中にも「受験に関係ない教科は教えないでほしい」とか、保護者もそれを後押しする傾向にあったことはかくれもないことがらであった。 このような「歴史認識」形成の基礎部分はとっくに崩壊していたのである。 歴史教育に関係した一人としてその責任は重く、慙愧にたえないところである。 ここまで書いてきましたが、私自身は現在(1月まえ)癌の罹病を告げられて、入院中で入院のすき間に書いていますが、もう少し早くから発言すべきであったと、これを書きながら反省しきりであります。 要するに、少なくとも「昭和史」の勉強は、どなたに限らず大いに勉強して頂きたいとおもっています。 # by takano-kk | 2006-10-11 08:37
2006年 01月 29日
(旧憲法アラカルト)
明治維新政府樹立の大黒柱は右大臣岩倉具視であった。太政官制から内閣制と統治体制を変換して、憲政体制へと移行する重要な段階で1883(明治13)年7月19日死去した。(欧州で憲法の勉強をしていた伊藤博文は8月3日帰国) 1885(明治18)年、内閣制度が発足し伊藤を総理大臣とした薩長藩閥内閣が誕生して、1888(明治21)年4月憲法と皇室典範の審議を目的に枢密院を設置しいとう自ら首相から議長に転じてた。 *現在日本では皇室典範が憲法審議に先行して審議に入りかけている。この時(明治22年)皇位継承は男系男子に限ると規定した。 ![]() 憲法草案は既に1886(明治19)年伊藤に依頼されて井上毅(熊本出身)が着手していた。彼は政府顧問として招聘されていたドイツ人学者ヘルマン・ロエスレルとアルベルト・モッセを相手に甲・乙二通りの案を作成した。それは天皇大権を明文化しない(甲)とする(乙)という違いがあった。 8月から金沢の夏島(横須賀市夏島町)の伊藤の新築の別荘で秘密裏に伊藤・秘書官の伊東巳代治と金子堅太郎に甲乙、ロエスエル案を携えた井上毅が参加して8月中旬にいわゆる「夏島草案」が完成した。 (夏島と四名の審議者) ![]() その後、十月草案、翌1988年2月の二月草案が明治天皇に奉呈され、若干の書き入れの後、最終稿として枢密院に出されるが、上記4名でのみ草稿は推敲されたといって良い。(審議内容は徹底した秘密主義で審議主義であった) (枢密院での憲法案審議絵) ![]() (宮中での欽定憲法公布式) ![]() (憲法発布日の前夜)(「ベルツの日記」より)ー発布日(2月11日の2日前の日記) 「東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ。」 (異議を唱える人達は居た!) (安達吟光・『大日本頓知研法発布式』)1889(明治22)年2月28日 『頓知協会雑誌』 下の図は宮武外骨が主宰した時局諷刺雑誌「頓知協会雑誌」2月28日号の巻頭に掲載されたものであるが、明らかに発布された憲法のパロディとなっている。例えば第一章第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は「大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」などと逐条憲法本文をなぞっている。 当局はこれを「不敬罪」で捉えて、発行人の外骨は最高刑の重禁錮3年、罰金100円。絵の安達吟光は重禁錮1年、罰金50円。印刷人の徳山鳳州は重禁錮8ヶ月、罰金30円の思い刑をうけた。 ![]() (欽定大日本帝国憲法発布祝賀仮装行列の面々)1889(明治22)年2月11日 (モース博士のコレクション)ー『百年前の日本』より ![]() (祝賀風景)当時の錦絵 ![]() (祝賀行事の担い手達) 発布日前夜は晴れ着調達で呉服屋の反物が払底したとか、旗屋では日の丸がうりきれたとか、町の飾りつけ、祝賀行列の計画や奉祝門があちこちに立てられる話で持ちきったが、フランス人画家ビゴーもこのあたりを細かくスケッチしている。下のスケッチは祭典の世話役の一人を描いているが、企画者の多くは町の世話役や学校の校長などで、この人物もその一人(校長風)である。 ![]() (日本国憲法) (厚木飛行場に降り立つマッカーサー) ![]() (戦艦ミズーリ上での降伏文書調印式) ![]() (日本国憲法最終草案稿と第一次吉田内閣)ー『日本の歴史』集英社21巻より ![]() (昭和天皇による日本国憲法の公布書)1946(昭和21)年11月3日 ![]() # by takano-kk | 2006-01-29 18:17
2005年 12月 09日
この度、2006年2月10日~4月9日県立美術館で標記の展示が行われます。ケーテ・コルヴィッツは第一次大戦では息子ペーター、第二次大戦では孫を失い、ナチス下のドイツで反骨の反戦・平和を貫き通し、投獄こそされなかったが、作品の展示は禁止され、1945年ナチス・ドイツ政権の崩壊を見ずして、敗戦直前に亡くなった天才的な女性芸術家です。本欄では、不慣れで、見当違いを覚悟でその作品と時代を紹介します。
(展示ポスター) *上写真ー「女と死んだ子ども」 下写真ー「ケーテ・コルヴィッツ自画像」 ![]() (ケーテ・コルヴィッツ・ミュージアム・ベルリン) ![]() (ケーテ・コルヴィッツ1890年頃の肖像写真) ![]() ケーテ・コルヴィッツ(旧姓シュミット)(1867~1945)は東部プロイセンのケーニヒスベルクの町に左官のマイスター(親方)カール・シュミットを父に、ケーテ・ループを母に生れた。ここで彼女の思想の基層部分関わる、両親の成育暦について述べたいと思う。 父親は根っからの左官ではなかった。彼は苦学して大学に学び、法律学を修めて判事補の職を得たが、カイゼルのヴィルヘルム2世と宰相ビスマルクの専制的人民支配に疑問を感じて職を辞し、改めて左官の技を勉強して「親方(マイスター)」に転職した人物であった。 母方の方も独特の生き方をした一族であった。それは母の父ユリウス・ループはドイツにおける最初の自由宗教の牧師であった。1840年代の後半はフランス革命後の自由主義・国民主義の高まりはドイツにも及び、ドイツロマン派の高まりの中、文学ではハイネらが専制政治に立ち向かっていたが、1848年の3月革命が挫折すると、一転して専制の嵐が吹き荒れ、父ユリウスはそれに抵抗した一人であった。 二人の邂逅が如何なるものかは浅学にしてわからないが、この二人を近づける要因は醸成されていたようである。 ケーテは兄とケーニヒスベルクの町を流れるプレーゲル河の畔の広い家で幼児期を過ごした。 父の左官の技術は、ただ壁を塗るだけではなく、レンガを積んで家を建てる仕事から、その家々の浮彫り石膏彫刻も仕事の内で、かなり高度な美術センスを要したものでケーテも生れた時からその環境の下にあったのである。 ケーテの画才を育む上で忘れられないのは母親ケーテの絵心であった。母は古今の絵の大家の絵の模写を娘にみせて絵心をそそった。 ケーテが14歳になり、父カールの下で働いていた銅版職人の一人が、石膏について素描の方法を教え始め、やがて銅版画の創り方にまで及び17歳まで続いた。 やがて、父はこの娘の才能を花開かせるべく兄の就学先のベルリンへと旅立たせた。 ベルリンで師事した教師はシャウフェルというスイス人であった。彼はケーテの画歴の中で基礎部分の重要な存在であった。彼はケーテの才能をすばやく見抜き彼女の教育に傾注したが、画想としては*クリンガーの影響を受け、彼女の絵を「クリンガーの絵のようだ」とシャウフェルをして言わしめたほどであった。 *クリンガー(1857~1920)は写実主義からベルリンでは印象派の作家で知られ、 独自の色彩の使い手で知られていた。のち彫刻に転じる。 シャウフェルの慰留にもかかわらずケーニヒスベルクに帰った彼女は、師に恵まれないク、今度はミュンヘンで画業の修業に入った。 この時代のミュンヘンはフランス印象派の影響が強く、彼女は旧来のドイツ画壇が現代生活へ目を向けることが少ないことを痛感し、あに語らって「コムポニール倶楽部」を結成したといわれる。そして自らの才能の中には銅版画の適性を認めて、塗ること即ち絵具による表現よりも、スケッチ・銅版画に自己の領域をこの時代に見出したという。 1890年、ケーニヒスベルクに帰った彼女は小さなアトリエを構えて、若い女性には珍しく白と黒で周辺の貧しい人々や港町に暮らす人々の暮らしを描写し始めた。 ケーテ(24歳)は1891年、兄の友人で健康保険医であったカール・コルヴィッツと結婚し、ベルリンに移住した。カールは真に労働者のための医師たらん志した医師であった。当時のドイツは産業革命の急激な進展で、創出された労働者の劣悪な生活環境は社会問題であり、革命の機運を生んでいた。 ケーテは92年に長男ハンス、96年に次男ペーターを出産したが、結婚にさいして彼女の父は家庭に入る彼女に画業を捨てるよう忠告するが、彼女はそれを拒み、カールの月賦診療所での赤裸々な人間像を見つめ、描く焦点を磨いていった。 1897年ケーテは初めての版画集『織匠』を発表し、これを機に家庭に入ることを望んでいた父シュミットは彼女の仕事を認め、ケーテも父の姿に感動を覚えている。 *G,ハウプトマン(1862~1946・ノーベル文学賞受賞者)の代表作といわれる戯曲『織匠』は1892年に発表され、ドイツのシレジェン地方の織匠達が工場主らの過酷な扱いに抵抗した事件を激化したもので、その芝居を観たケーテはハウプトマンに会いに行っている。ハウプトマンはケーテの印象を「露のあるバラの花のように新鮮な若い女性であるということと、非常につつましく自分の芸術については一言も語らず、しかもどこかに人の注目をひくものをもっている婦人であった」といったと言う。(宮本百合子「ケーテ・コルヴィッツの画業」より) ケーテの版画集『織匠』はハウプトマンの戯曲の上演から4年後の1897年にだされた。下の「相談」は灯りの下の四人の男の生活の苦悩を炙り出したような光芒はケーテの並々ならぬ技巧の高さを見ることが出来る。 この展覧会の委員会は全会一致でこの作品に銀牌を贈る事を決めるが、皇帝ヴィルヘルム2世はこれを許さず却下した。 (織匠)六枚の内(第3枚「相談」) ![]() (踏みにじられし者たちー亡霊と柱に縛りつけられた裸婦)銅版画 1900年初 ![]() (正面向きの自画像)1904年リトグラフ新潟県立美術館・万代島美術館蔵 ![]() (連作『農民戦争』第一葉「耕す人」1906~7)エッチング ドイツ対外文化交流研究所蔵 *ドイツ農民戦争 1524年~25年に西南ドイツを中心に起きた「ドイツ農民戦争」宗教改革者ルターの思惑を超えて、遅れたドイツ社会の覚醒運動に発展した。 フランスの「ジャックリーの乱」、イギリスの「ワット・タイラーの乱」と並びヨーロッパ近代社会への扉を開ける三大農民戦争とされる。 1905年は「血の日曜日」にはじまるロシアの1905年革命もあり、ドイツでもその衝撃は伝わり、民衆はドイツの現状打破をドイツ農民戦争に仮託した。 『農民戦争』の連作は1908年に発表され、ケーテは「ヴィラ・ロマーナ賞」を獲得した。この賞は一年間イタリアのフィレンツェに無料で招待されるという内容の賞であった。 この連作の中で「耕す人(鍬を牽く人)」は劇作家ハウプトマンに触発されたモティーフがこの時期の彼女の創作姿勢であったが、あと一つ、ビスマルク失脚後のドイツ社会民主党の台頭と、迫り来る三国(英・仏・露)協商(1907年成立)と三国(独・墺・伊)同盟(1882年成立)の全面対立と、急速な反戦勢力(ドイツ社会民主党や第二インターナショナルなど)の内部亀裂の拡がりが、彼女の心にもかげりを落としていつかもしれなかった。それが「耕す人」の必死の鋤を引く姿にシンボリックに描かれているといわれる。 ![]() (『農民戦争』「突撃」) ![]() 1910年フィレンツェから帰国し、1914年の第一次世界大戦開戦までの彼女は全く沈黙を守った。 (その時期の作品) (死と女と子)1910頃 銅版画 ![]() (「子を抱く女」1910頃 ドイツ対外文化交流研究所蔵) ![]() 1914年サライエヴォ事件に端を発した第一次世界大戦がはじまった。この年の秋に彼女は次男ペーターを戦争でなくした。 これをきっかけに彼女の創作活動が再開された。 (「カール・リープクネヒト追悼」1919年) カール・リープクネヒト(1871~1919)はドイツ社会民主党創立者の一人、ヴィルヘルム・リープクネヒトの子で、ライプチヒに生れて弁護士となり、1906年「軍国主義と反軍国主義」を著して投獄された。出獄後社会民主党の国会議員となり、大戦中(14年)ドイツ社会民主党の党議拘束(軍事国債発行賛成)に反対して、脱党してローザ・ルクセンブルグとともに「スパクタルクス団」を結成して革命運動を継続し、16年ベルリン・ポツダム広場での反戦デモの指導者として投獄された。1918年ドイツ革命の勃発で釈放され、ドイツ共産党を組織した。そして社会民主党の臨時政府と対立して逮捕されて、1919年1月15日暗殺された。 ケーテは政党活動とは関わらなかったが、反戦主義者のカールに共感を抱いていたのだろか下の作品を発表している。 ![]() (ワイマール共和国とケーテ) ドイツ革命で共和制ドイツが誕生した。しかし、普仏戦争で莫大な賠償金を収奪されたという恨みを持つフランスを先頭とした英などの戦勝国がドイツに課した賠償金は天文学的な数字で、そのためドイツ社会はどん底状態になった。 その中で、ケーテは貧困社会への眼差しを逸らそうとはしなかった。 1919年ケーテは女性初のプロイセン芸術アカデミー会員に選出され、教授の称号を与えられた。 しかし、ケーテの反戦・貧困救済の姿勢は変えなかった。その間に、ケーテは『戦争』(1920~23)、『勤労する人々』(1925)などを世に送っている。 (『両親』(1921~22)ドイツ対外文化交流研究所蔵) ![]() 1927年ケーテ・コルヴィッツは盛大に60歳の誕生日を祝われた。かってカイゼルのヴィルヘルム2世から「どぶ石芸術の画家」と蔑まれた彼女は、今やドイツの国民的芸術家として賞賛の中でのお祝いであった。 しかし、1929年に始まるアメリカ・ウォール街発の「世界大恐慌」は最大の債権と失業者を抱えたドイツに大きな衝撃を与えた。 大恐慌は左右の政治対立をおおきくし、中でもナチズムの台頭はドイツの命運をおおきく揺さぶった。 1933年中産階級・資本家・軍部によって支持されたヒトラー率いる「ナチス」は全権委任法で独裁を確立した。 この政権下では、抽象芸術や前衛芸術などは「退廃芸術」として排斥され、ケーテも1935年、ナチス入党を勧誘されたが、拒否したため事実上作品製作・発表の途は閉ざされた。 その頃、中国では魯迅がケーテの業績に着目し、新しい文化の成果としてケーテの作品を自ら手がけて刊行している。その序文は当時中国にあって紅軍の取材を続けていたアグネス・スメドレイの序文が付けられた。 *アグネス・スメドレー(1892~1950)アメリカの女性評論家、第一次大戦中ニュー・ヨークでインド独立運動を支持して禁固刑をうけ、渡独したあとフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者として中国で12年間紅軍の取材をして、「女一人大地を行く」や紅軍の将軍朱徳の半生を描いた「偉大なる道」を書く。 (『ピエタ』ブロンズ像 1937~38 ドイツ対外文化交流研究所蔵) ![]() 1939年ドイツはポーランドに侵略をはじめ、第二次世界大戦ははじまる。1942年ケ-テは東部戦線で孫のペーターを戦死でうしなった。 ノルマンディー上陸作戦に成功した連合軍は1945年春にドイツ本土に侵入する中、1945年4月22日、ケーテはドレスデン近郊モーリッツブルクで戦争の終結を見ることなく永眠した。(5月8日ドイツ降伏) ケーテ・コルヴィッツの死が伝えられると、アメリカ、ニュー・ヨークのセント・エチエンヌ画廊でケーテの追悼展覧会が開かれ、未発表の木版画などの作品・遺作が展示された。 # by takano-kk | 2005-12-09 16:44
2005年 11月 24日
(大阪南座での坂田藤十郎の四世襲名披露の一場面)
(夕霧名残の正月) ![]() 「元禄歌舞伎について」 (前史) 歌舞伎は慶長八(1603)年春に、「出雲国神子女」国(出雲お国)が男伊達姿で茶屋遊びの真似事をして踊り、それが京人の人気を博し、「歌舞伎踊り(通称「お国歌舞伎」)」といわれたことに起源し、寛永六(1629)年、幕府により「淫ら」の廉で禁止され、替わって少年を使った「若衆歌舞伎」も承応元(1652)年同様の理由で禁止され、代わって成年男子が月代(さかやき)を剃って舞台に上がったことから「野郎歌舞伎」として登場し、踊り・物真似芸から演劇として成長したのが「元禄歌舞伎」である。 (第一次隆盛期元禄歌舞伎) 元禄期(1688~1704)を中心とした約50年間は、「元禄歌舞伎」と呼ばれる歌舞伎の隆盛期が現出した。 この時代江戸では初代市川団十郎による荒事(あらごと)を創始し、上方では初代坂田藤十郎が和事(わごと)を完成し、女方の名優芳沢あやめ(よしざわあやめ)があらわれた。 また、それまでは歌舞伎役者が脚本まで書いていたが、元禄期になると独立した専業の狂言作者(近松門左衛門はその代表)輩出した。 上方で和事あは初代坂田藤十郎で完成したといわれるが、和事を生んだ狂言は『傾城買狂言』から生れたといわれ、上方のお家騒動物の歌舞伎の中で傾城(けいせい)買いの場面から次第に発達したものといわれる。 和事のせりふ・所作は女性的なまろやかで、柔らかなしぐさ・せりふを特徴とする。また、この役柄の場合、多く高貴な出自の人が何らかの事情で身を窶(やつ)したという想定が多い。 代表例として、『廓文章(くるわぶんしょう)』の藤屋伊左衛門、『時雨の炬燵』の紙屋治兵衛などが例挙できる。 (初代坂田藤十郎『鋸くず』(複製))東京中央図書館加賀文庫蔵 ![]() (芳沢あやめ「『野郎関相撲』より」)加賀文庫蔵 上方の女方の第一人者で、日常でも女性の暮らしを実践していたという。あやめは女方としての心得の書『あやめ草』は後世の女方に大きな影響を与えた。 ![]() (坂田藤十郎墓ー大阪・天王寺区 四天王寺) ![]() (近松門左衛門画像)ー早稲田大学演劇博物館蔵 ![]() (紙衣姿の藤屋伊左衛門)五渡亭国貞画 紙子(かみこ)は和紙を張り合わせてつくった衣のことをいい、本来は僧侶の粗末な着衣をあらわしますが、粗末な着衣を「やつい」と歌舞伎では呼びならわしている。そのような着想にもかかわらず、着衣は派手で、黒地の生地に金糸銀糸で、「恋しく候」をおもわせる刺繍などが施されている。 ![]() (傾城買狂言(けいせいかいきょうげん)『廓文章』)五渡亭国貞画 (『八重桐』の藤十郎) 和事の代表作『廓文章』の主人公の藤屋伊左衛門は、恋人の遊女夕霧もとに通いつめたため勘当された若旦那役である。初代坂田藤十郎が生涯演じ続けた役で、「やつし」「傾城買」など和事の極みがこの中で生れた。 ![]() # by takano-kk | 2005-11-24 21:03
2005年 11月 19日
(ワイルド・ビル)映画ー「平原児」「ミズーリ大平原」「ワイルド・ビル」など
彼の本名はジェームズ・バトラー・ヒコックで、イリノイ生まれ、若い日はハンターとして射撃を習熟し、1855年カンザスに赴き駅馬車の御者となり、やがて大陸横断馬車の御者となる。この時はある駅逓で悪名高きクルカンスいちみと戦い彼等4名を射殺して高名となる。南北戦争中は斥候として数々の功名を上げた。戦後ハンコック・シェリダン・カスターなどの軍隊の斥候をつとめ、69年には荒くれ町で有名なヘイズ・シティ、71年には牛の町アビリーンの保安官となる。72年~73年はバファロー・ビルの「大西部ショー」の一員に加わり、76年には賭博師としてデッドウッドにあった。8月2日賭博の席上彼に恨みを持つものの手で背後から射殺された。その時手にしていたトランプの手がスペードとクラブのツウ・ペアだったので以来この手を「死者の手」といったという。彼の墓はデッドウッドにあるが、遺言でカラミティ・ジェーンの墓があるが、伝えられるような「恋仲」ではないようである。 ![]() (カラミティ・ジェーン)映画ー「カラミティ・ジェーン」その他 本名はマーサ・ジェーン・カナリーといい、大柄で粗野、淫らだったという。いつも男装をし、噛み煙草・飲酒を嗜み男に惚れっぽく、一緒になった男が急死するので“災難(カラミティ)”というあだ名ついた。一時は駅馬車の御者・陸軍の斥候もつとめた。ワイルド・ビルが殺されたことを知り、その犯人を追い詰めに肉きり包丁で切りかかり、人に阻まれたという。生来の酒好きが昂じてアル中となり、デッドウッドで死んだ。その際の遺言でワイルド・ビルの横に埋葬された。子供が一人居たという。 ![]() (西部の悪女ベル・スター)映画ー「オクラホマ無宿」「シマロン・キッド」その他、ダルトン兄弟、ジェームズギャング物の映画に随処に ミズーリで育ち、ダルトン兄弟・ヤンガー兄弟・ジェームズ兄弟等とも遠縁関係にあった。コール・ヤンガーとの間に一子をもうけている。 ミズーリで強盗をやって1867年テクサスのダラスにやって来て、ぴったりとした濃紺の衣装とあ二丁拳銃で人目を欹てた。80年にサム・スターというチェロキー・インディアンと結婚して、オクラホマのインディアン居留地に住み、無法者達をかくまった。 ジェームズ兄弟もかくまわれた。 83年には馬泥棒の廉で投獄されたが、89年何者かによって射殺された。 ![]() (バファロー・ビル・コディ)映画ー「平原児」「西部の王者」 本名はウイリアム・フレデリック・コディ、アイオワ生まれで、4歳で父親の移住でカンザスのローレンスに住む。11歳で父親を亡くし一家の柱として働き始め、幌馬車の助手、猟師、鉱夫などを経て、14歳の時最年少のポニー・エクスプレスの騎手として480キロの道程を21時間で完走するという新記録を打ち立てて有名となる。 南北戦争では北軍の民兵スカウトとして活躍し(この時ビル・ヒコックと知り合う)、戦後はバファロー・ハンターとしてカンザスパシフィック鉄道会社の労働者に肉を提供し(18ヶ月でバファロー4280頭を仕留めた)、ハンターとして新記録をうちたてた。 このことにNYウィークリーの記者で西部小説家のネッド・バントラインが目をつけて、潤色だらけの西部の英雄像を描いて、東部でベストセラーとなり、「バファロー・ビル」の名はいやがうえにも高まり、ビルもそれに乗っかってなりすまし、カスターの戦死後、先住民討伐でスカウトとして名を挙げた。(ウォーボネット川でのイエローハンドとの一騎打ち等) 1882年には「ワイルド・ウエストショー(大西部ショー)」を旗揚げして、全米はては欧州にまで公演してまわり1885年には100万人を動員して巨利を手にした。 その際、族長シッティング・ブル、ミュージカル「アニーよ銃をとれ」のモデル、アニー・オークレーやカラミティ・ジェーン、ワイルド・ビル・ヒコックなども一行に加えた。 1917年コロラド州デンバーで死去。享年71歳 ![]() (ビリー・ザ・キッド) ![]() (J,ジェームス・ドク、ホリデイ・ワイアット・アープ) ![]() (シッティング・ブル) ![]() (ジェロニモ) ![]() # by takano-kk | 2005-11-19 15:49
2005年 11月 08日
(クォーター・ホース(Quarter Horse))
![]() ヴァージニアで入植者達の手で、17世紀の初頭にイギリス系馬をベースにスペイン馬を交配させて出来た最初のアメリカ馬 (ピントー(PintoまたはPaint Horse)) ![]() 16世紀に大陸に持ち込まれたスペイン系(アンダルシア)の馬をベースにつくられた馬。茶色地に白斑(オヴェロー写真)と白色地に茶斑(トビアノ)がある。 (アパルーサ) ![]() オレゴン州パルーサ川に因む名前で、スペイン系馬から作られた。模様によりBlanket ,Marble,Leopard,Snowflake,Frostと呼ばれる。 (ムスタング) ![]() 16世紀に持ち込まれたスペイン系の馬が、メキシコで野生化したものでテキサス・レンジャーがスタンダードに使った馬で知られる。 (盛装した先住民の戦士ー1898年) 既に儀式化した盛装で、観光用かもしれない ![]() # by takano-kk | 2005-11-08 16:58
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