「終戦の詔書」
「不動のまま、玉音放送を聴く人々」(当時の新聞)
「玉音放送が流れ、宮城では……」(当時の新聞)
(「一億総ざんげ」論)ーこの発想が戦争責任の所在を「うやむや」にし、戦後政治を何となく「うやむや」にぼかして今日に至らしめた源流の一つと思われる。
1945年8月28日(敗戦「終戦の詔書」から13日目)の東久邇宮首相がおこなった内閣記者団との戦後初の会見記事ー「朝日新聞」より(少々長いですが……)
「国体護持ということは理屈や感情を超越した固いわれわれの信仰である。祖先伝来我々の血液の中に流れている一種の信仰である。四辺(あたり)から来る状況や風雨によって決して動くものではないと信じる。
現在において先日下された詔書を奉戴し、これを実践に移すことが国体を護持することである。また一方詔書を奉戴し、また外国から提出してきた条項(ポツダム宣言のこと)を確実に忠実に実行することによってのみわが民族の名誉を保持する所以だと思う。……
ことここに至ったのはもちろん、政府の政策がよくなかったからでもあるが、また国民の道義がすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。」
1945年10月4日朝日新聞によると、山崎巌内相は「治安維持法」は堅持し、国体を批判する者は今後も断乎として逮捕する旨言明し、全警察陣の補強を今日の最大の問題と喋っている。
東久邇宮の「一億総懺悔」論は戦時中に国民の「戦意高揚」を叫んだ人々やいわゆる「進歩的知識人」、「労働組合」等を中心に、マスコミをも巻き込み「燎原の火」のように国民の間にひろがり、そのことは子供ながらに私も鮮明に記憶している。
敗戦の原因は「政府の政策がよくなかったからでもあるが」とし、一方「国民の道義がすたれたのも原因の一つ」として国民へも責任の一旦を担わせ、だから「軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬ」と、「戦争責任」の曖昧模糊な三段論法を全国に流布し、戦前の体制を維持することに腐心することになった。上記山崎内相の言明もその一つである。
国民に対して「国に殉じよ」=「国に命を差し出せ」と強制した「軍官民」の指導層が本当に上記のように「徹底的に反省し懺悔」していれば日本の戦後史は大きく様変わりしたのであろうが、歴史には「もしも」という設定はないので、これ以上敷衍しても仕方がない。
つまり、日本の旧支配層は多くの問題を含む「極東国際軍事裁判(東京裁判)」に「人身御供」的な「殉国者」を出して、その命脈を保った……と 私は見るのである。それが今日の「靖国」問題の大きな一面を成しているのである。現に当時の「軍官民」指導者の孫・曾孫世代が今日の政権機構の中で枢要な地歩を築いていることに我々はみてとることが出来る。そしてかって占領国から押し切られた「民主主義」受容=「押しつけ憲法」への押し戻しの好機到来と考える時代が訪れたかにみえる。(日本版ネオコンとよばれる人々の出現)
*「反自虐史観」論者、憲法改正論者、やがて出てくるかもしれない「日本核武装」論者として存在するとおもわれる。
戦後の旧支配層の抵抗は続く、美濃部達吉博士等の民主主義体制達成に新憲法は不要という「憲法改正不要論」や、民主主義受容の憲法私案のほか各種の団体による「国体護持」を主体とした憲法案などが叢生した。
かたや、占領側は抵抗する日本政府に「ポツダム」宣言の履行を求めた。その要求の中心的部分は天皇制を残し、自由主義を基本にした「民主主義」憲法の制定であった。
1945年10月4日付総司令部の「自由の指令」がそれである。
*「自由の指令」は長くて転記困難なので、「検索」されたい。
ただ、それから6日後(10月11日)に就任したばかりの新首相幣原喜重郎がマッカーサーを表敬訪問した折の1945年10月12日付の朝日新聞は「明治憲法の抜本的改正にかんするマッカーサーの指示」として……
「ポツダム宣言を履行するにあたり、日本国民が何世紀もの長きにわたって隷属してきた社会の秩序伝統を矯正する必要があろう。
日本民衆は、政府がその日常生活に立入って秘密に取調べを行い、その結果民衆を事実上の奴隷心理(殉国精神の事ー私の注)に陥れつつある事態から完全に解放されねばならず、また思想、言論、信教の自由を抑圧する一切の制限からも解放されねばならない。能率増進の仮面のもとに民衆に盲従を強制する要請を実行しその目的を達成せんがため、余は日本の社会組織における次のごとき改革を可及的速やかに実施せんことを貴下に期待する。」
これを受けて政府は消極的な反応をみせ、勅令、閣議決定などに拠らず、閣議了承という形式で国務大臣松本蒸治を委員長に「憲法問題調査委員会」を設置し、1945年12月8日衆議院予算委員会で、「1、天皇が統治権を総攬せられるという基本原則にはなんらの変更を加えないこと。このことは、おそらくわが国の識者ほとんど全部が一致しているところである。」に始まる「松本四原則」を発表し、1946年2月8日明治憲法の字句を若干修正した、他の諸試案の中で最も明治欽定憲法に近い「憲法改正要綱」なるものを占領軍総司令部に提出した。
それに対して、総司令部は受け入れの「全面拒否」し、日本政府に対して「最大限に考慮」することをもとめる「総司令部案」を1946年2月13日に提示した。
*骨子は「人民主権」・「象徴天皇制」・「戦争の廃棄」・「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表者トシテノ国家ニ帰属ス」など、今日の憲法に盛り込まれている諸原則が書かれていた。
政府は、2月18日に先に提出した「憲法改正要綱」を妥当なものとした、「補充説明書」を提出して抗弁するが、総司令部側は即座に拒否し、48時間以内に「総司令部案」に則した案を作るかどうかの回等を求め、「回答が無き時は「総司令部案」を直接国民に提示するがいいか」と迫った。
その後、政府は総司令部から数度の督促を受けながらいわゆる「三月二日案」という明治憲法から大きく後退した案を、総司令部は三月四日に政府から受け取り、その案を基に総司令部は「最終案」の共同研究会を提案し、研究会で徹夜の共同作業がおこなわれた。
*総司令部案の「人民主権」・「土地及一切の天然資源の究極的所有権」などは復活しなかったが、基本的人権などかなりの部分が復活した。
政府は3月6日この「最終案」を若干修正のうえ、「憲法改正草案要綱」として、天皇の勅語を付して発表した。マッカーサーは、同日この案の全面支持の声明をだした。
このような鬩ぎ合いの中で誕生した憲法であるが、今日、「占領下の押し付け」による憲法を改正せよという議論の中に、大きく欠落か無視された前提があることは論を俟たないと思うが、それは戦前の歴史に対する「歴史認識」がおおきく立ちはだかっているからに他ならない。
一つは憲法制定時に抵抗した旧指導層の存念が今日に継承されていることである。「私の祖父が」と事あるごとに鸚鵡返しにいう政治家をはじめ、孫・曾孫世代の血統的或いは思想的継承者が一気に登場している昨今、戦後教育の中での「歴史教育」の貧しさを痛感している今日である。受験教育によって「歴史認識」の部分はカットされ、経済発展至上の風潮、「美しい」山野は毀され、家族の紐帯も切れ切れにされて、家族の荒廃も「教育」制度の所為に帰せられ、
教育基本法(実は戦後ろくに守られていないのが実体、条文を知らない国民が大多数)の改正が「美しい国」つくりの特効薬のような議論さえおきている。
*最近の「地歴教科の間引き」で、卒業出来ない高校生が大量に出ていることが新聞紙上で喧騒れれているが、こんなことは近年のことではなく、受験教育至上の学校の体制にとっくに取り込まれ昔から行われ、この分野でかつやくすることが校長への近道の主なものとなっていることは隠れもない事実で、ことに学校のトップダウン体制が完成したこの20年ほど前からは校長は充分に承知し、施行しているのであり、教委の幹部も充分認識していたことであった。
そのことが、歴史教育の軽視を生み、生徒の中にも「受験に関係ない教科は教えないでほしい」とか、保護者もそれを後押しする傾向にあったことはかくれもないことがらであった。
このような「歴史認識」形成の基礎部分はとっくに崩壊していたのである。
歴史教育に関係した一人としてその責任は重く、慙愧にたえないところである。
ここまで書いてきましたが、私自身は現在(1月まえ)癌の罹病を告げられて、入院中で入院のすき間に書いていますが、もう少し早くから発言すべきであったと、これを書きながら反省しきりであります。
要するに、少なくとも「昭和史」の勉強は、どなたに限らず大いに勉強して頂きたいとおもっています。