2005年 08月 20日
映画『ソルジャー・ブルー』を歴史する |
(『ソルジャー・ブルー』という映画について)
1970年 アブコ・エンバシーによって配給され、監督ラルフ・ネルソンによる映画であったが、当時アメリカはヴェトナム戦争ではその戦略は破綻しかかっていた状態の中、やがて西部劇の中に見るアメリカ開拓のあと一つの真実を見ることになり、この映画が出る直前、ヴェトナムでアメリカ軍による「ソンミ村の虐殺」が明らかになり、そのこととオーヴァーラップされて、西部劇そのものがその存在を問われることになる重要な映画である。
映画を見られた方は記憶にと留めておられるかもしれないが、GooやGoogleで検索されてそのあらすじを辿って頂きたい。
(映画『ソルジャー・ブルー』のポスター)
(あらすじの概略)
1860年代のコロラドが舞台で、インディアンと開拓者・アウトロー・騎兵隊との争いは絶えない土地に、婚約者の元を訪れる旅行をしていた白人の女性(クレスタ)はシャイアン族の襲撃で囚われの身ながら、比較的自由に暮らすことが許されていたが、許婚の軍人の下に帰ることを許され、騎兵隊の護衛隊と砦に向かう途中、またシャイアンの襲撃でホーナスという若い兵士と二人が生き残る羽目になり、二人で砦に向かうが、インディアンの立場を理解するクレスタと父を殺されてインディアンに悪意を持つ兵士ホーナスはことごとく意見が対立してしまうが、彼が足を負傷して彼女の看護を受けることから、彼にはほのかな恋が芽生えた。
砦にたどり着いた時に、許婚から騎兵隊がシャイアンの居住地を襲撃することを聞かされ、二人はそのことを知らせるべく砦を脱出して現場に着いたときには、20分間のシーンは凄惨な修羅場と化した村を見ることになるというストーリー。
(歴史としての「サンド・クリークの虐殺」)
この時期はまだ南北戦争が戦われていた時代である。この頃は『風とともに去りぬ』の舞台ジョージア州のアトランタが占領され、北軍司令官シャーマンはこの町を焼き尽くし(11月15日)、大西洋岸のサヴァンナへ向けて「死の行進」を始め、11月28日シヴィングストン大佐の率いるコロラド準州の民兵は「サンド・クリークの虐殺」をやっている。
(サンド・クリークの虐殺への経過と背景)
1863年1月1日、「奴隷解放宣言」で黒人奴隷は法的には自由のみとはなったが実際には実現には100年以上の年月を要するのであるが、先住民族たるインディアンはこれから絶滅へと追い立てられることになるのである。
(「サンド・クリークの虐殺2ヶ月前の首長達の集合写真」)
平原に住む先住民にとり、バファローという動く財産と共存する限りにおいて生活は平穏であった。
(バファローを狩る平原インディアン)
この平穏な暮らしも三つの要因から乱され始めた。それは山掘り(金鉱探し)の群れの侵入と、幌馬車の出現。大陸横断鉄道の建設であった。
1851年プラット川地方のインディアン事務官のトーマス・フィツパトリックは主要な平原インディアンの酋長を集めて、いろんな物資の交換の代償として、各部族の居住地を分割、指定することを認めさせた。この処置はアメリカ政府の意図せるやり口であった。それまで移動する諸部族の自由な空間であったものが居住地を限定することで占有権(所有権)が生じたとして、政府は該当の部族とのみの交渉で土地の移譲を求めることが出来るようになったのである。これは政府が先住民族から土地を奪う常套手段であった。シャイアンとアパラホ族はコロラドの山麓に指定された。
その間の10年間は1854年にカンサスとネブラスカが準州となり、その地に住むインディアンは強制的に移住させられた。
その危機はまもなく訪れた。1859年にコロラドで金鉱が発見され、数万の山掘りがこの地に押し入ってきた。また鉄道の工事の先端も次第に近づいてその後には大勢の開拓者が押しかけることはインディアンの間でも容易に理解できた。
シャイアン・アパラホ族の間にも戦闘已む無しの空気が高まり、それを察知したインディアン事務官は1861年に酋長達をフォート・ライアンに招集して、アーカンザス河と東部コロラドのサンド・クリークの間の地を保留地に指定してこの地に押し込めようとした。
それに反発した両族は抵抗を始め、開拓者は襲撃をうけ、駅逓が破壊され、旅行者は襲われた。そしてコロラドは荒涼を極めた。
3年に及ぶ戦闘で、インディアンの側でも和平をもとめるうごきが出て、時のシャイアンの指導者ブラック・ケテルは和平に向けて交渉に入るが、新司令官の着任を機に和平をうったえる。
この司令官は初は連邦としてインディアンを保護すると約束するが、シヴィングストン大佐率いる1千の準州民兵が入るや、前言を翻すことになった。
すっかり和平成立を信じたケテルはサンド・クリークに宿営したが、そこをシヴィングストン隊が襲撃した。
(映画の一場面)
(サンド・クリークの虐殺(挿絵))
愕いたケテルは星条旗をたてて戦意なきことを示すが、攻撃が続く。そこで白旗を掲げても攻撃は凄惨を極めた。インディアンは女性や子供まで銃で撃たれ、ナイフで刺し殺された。これが「サンド・クリークの虐殺」として知られる事件であるが、この虐殺に参加したクレーマーという少尉は上院で次のように証言している。
「シヴィングストン大佐は軍隊に前進を命じ……インディアンの指導者〝ホワイテ・アンタロープ(白いカモシカ)〟が武器も持たず両手を挙げて走ってきたのですが、殺されました。女や子供は身を寄せ合っていましたが、われわれの銃火はこの女と子供の群れに集中しました。約100人ほどいたインディアンの戦士は絶望的に抵抗してきました。インディアンは全部で500人くらいいましたが、恐らく125人ないし175人が殺されたと思います。……大佐はインディアンを殺しにきたのであり、状況がどんなであれ、インディアンを殺すことは名誉なことと信じていたのです。」(清水知久『アメリカ・インディアン』中公新書より)
この映画の登場で騎兵隊の兵士(SOLDIER BLUE)は「野蛮」なインディアンの襲撃をうける善良な白人開拓者の救援に現れるという、「かっこいい」存在としてではなく、実態に近い描き方をしたと言う意味で西部劇史上画期的な作品となった。
1970年に封切られた1864年のこの事件は、100年後のヴェトナムで1986年にアメリカ陸軍がおこした「ソンミ事件」(ソンミ村ミライ部落の老人、女性、子供約500人が虐殺された)と重なり、現代社会への告発役を果たすとともに、以後の西部劇製作のあり方に大きな影響を与えた。
1970年 アブコ・エンバシーによって配給され、監督ラルフ・ネルソンによる映画であったが、当時アメリカはヴェトナム戦争ではその戦略は破綻しかかっていた状態の中、やがて西部劇の中に見るアメリカ開拓のあと一つの真実を見ることになり、この映画が出る直前、ヴェトナムでアメリカ軍による「ソンミ村の虐殺」が明らかになり、そのこととオーヴァーラップされて、西部劇そのものがその存在を問われることになる重要な映画である。
映画を見られた方は記憶にと留めておられるかもしれないが、GooやGoogleで検索されてそのあらすじを辿って頂きたい。
(映画『ソルジャー・ブルー』のポスター)
(あらすじの概略)
1860年代のコロラドが舞台で、インディアンと開拓者・アウトロー・騎兵隊との争いは絶えない土地に、婚約者の元を訪れる旅行をしていた白人の女性(クレスタ)はシャイアン族の襲撃で囚われの身ながら、比較的自由に暮らすことが許されていたが、許婚の軍人の下に帰ることを許され、騎兵隊の護衛隊と砦に向かう途中、またシャイアンの襲撃でホーナスという若い兵士と二人が生き残る羽目になり、二人で砦に向かうが、インディアンの立場を理解するクレスタと父を殺されてインディアンに悪意を持つ兵士ホーナスはことごとく意見が対立してしまうが、彼が足を負傷して彼女の看護を受けることから、彼にはほのかな恋が芽生えた。
砦にたどり着いた時に、許婚から騎兵隊がシャイアンの居住地を襲撃することを聞かされ、二人はそのことを知らせるべく砦を脱出して現場に着いたときには、20分間のシーンは凄惨な修羅場と化した村を見ることになるというストーリー。
(歴史としての「サンド・クリークの虐殺」)
この時期はまだ南北戦争が戦われていた時代である。この頃は『風とともに去りぬ』の舞台ジョージア州のアトランタが占領され、北軍司令官シャーマンはこの町を焼き尽くし(11月15日)、大西洋岸のサヴァンナへ向けて「死の行進」を始め、11月28日シヴィングストン大佐の率いるコロラド準州の民兵は「サンド・クリークの虐殺」をやっている。
(サンド・クリークの虐殺への経過と背景)
1863年1月1日、「奴隷解放宣言」で黒人奴隷は法的には自由のみとはなったが実際には実現には100年以上の年月を要するのであるが、先住民族たるインディアンはこれから絶滅へと追い立てられることになるのである。
(「サンド・クリークの虐殺2ヶ月前の首長達の集合写真」)
平原に住む先住民にとり、バファローという動く財産と共存する限りにおいて生活は平穏であった。
(バファローを狩る平原インディアン)
この平穏な暮らしも三つの要因から乱され始めた。それは山掘り(金鉱探し)の群れの侵入と、幌馬車の出現。大陸横断鉄道の建設であった。
1851年プラット川地方のインディアン事務官のトーマス・フィツパトリックは主要な平原インディアンの酋長を集めて、いろんな物資の交換の代償として、各部族の居住地を分割、指定することを認めさせた。この処置はアメリカ政府の意図せるやり口であった。それまで移動する諸部族の自由な空間であったものが居住地を限定することで占有権(所有権)が生じたとして、政府は該当の部族とのみの交渉で土地の移譲を求めることが出来るようになったのである。これは政府が先住民族から土地を奪う常套手段であった。シャイアンとアパラホ族はコロラドの山麓に指定された。
その間の10年間は1854年にカンサスとネブラスカが準州となり、その地に住むインディアンは強制的に移住させられた。
その危機はまもなく訪れた。1859年にコロラドで金鉱が発見され、数万の山掘りがこの地に押し入ってきた。また鉄道の工事の先端も次第に近づいてその後には大勢の開拓者が押しかけることはインディアンの間でも容易に理解できた。
シャイアン・アパラホ族の間にも戦闘已む無しの空気が高まり、それを察知したインディアン事務官は1861年に酋長達をフォート・ライアンに招集して、アーカンザス河と東部コロラドのサンド・クリークの間の地を保留地に指定してこの地に押し込めようとした。
それに反発した両族は抵抗を始め、開拓者は襲撃をうけ、駅逓が破壊され、旅行者は襲われた。そしてコロラドは荒涼を極めた。
3年に及ぶ戦闘で、インディアンの側でも和平をもとめるうごきが出て、時のシャイアンの指導者ブラック・ケテルは和平に向けて交渉に入るが、新司令官の着任を機に和平をうったえる。
この司令官は初は連邦としてインディアンを保護すると約束するが、シヴィングストン大佐率いる1千の準州民兵が入るや、前言を翻すことになった。
すっかり和平成立を信じたケテルはサンド・クリークに宿営したが、そこをシヴィングストン隊が襲撃した。
(映画の一場面)
(サンド・クリークの虐殺(挿絵))
愕いたケテルは星条旗をたてて戦意なきことを示すが、攻撃が続く。そこで白旗を掲げても攻撃は凄惨を極めた。インディアンは女性や子供まで銃で撃たれ、ナイフで刺し殺された。これが「サンド・クリークの虐殺」として知られる事件であるが、この虐殺に参加したクレーマーという少尉は上院で次のように証言している。
「シヴィングストン大佐は軍隊に前進を命じ……インディアンの指導者〝ホワイテ・アンタロープ(白いカモシカ)〟が武器も持たず両手を挙げて走ってきたのですが、殺されました。女や子供は身を寄せ合っていましたが、われわれの銃火はこの女と子供の群れに集中しました。約100人ほどいたインディアンの戦士は絶望的に抵抗してきました。インディアンは全部で500人くらいいましたが、恐らく125人ないし175人が殺されたと思います。……大佐はインディアンを殺しにきたのであり、状況がどんなであれ、インディアンを殺すことは名誉なことと信じていたのです。」(清水知久『アメリカ・インディアン』中公新書より)
この映画の登場で騎兵隊の兵士(SOLDIER BLUE)は「野蛮」なインディアンの襲撃をうける善良な白人開拓者の救援に現れるという、「かっこいい」存在としてではなく、実態に近い描き方をしたと言う意味で西部劇史上画期的な作品となった。
1970年に封切られた1864年のこの事件は、100年後のヴェトナムで1986年にアメリカ陸軍がおこした「ソンミ事件」(ソンミ村ミライ部落の老人、女性、子供約500人が虐殺された)と重なり、現代社会への告発役を果たすとともに、以後の西部劇製作のあり方に大きな影響を与えた。
by takano-kk
| 2005-08-20 01:13