2005年 09月 28日
シルクロード雑感(編集中です「↑トルファン(車師(吐魯番))」) |
(シルクロード略地図)ー「地図をクリックしますと少しははっきりします」
シルク・ロードとは古来からの中国と西アジア・ヨーロッパをつなぐ文物の行き交った内陸ルートをいう。ほかには古いルートはモンゴル高原と南ロシアとを結ぶ「草原の道(ステップロード)」やおくれて紀元前後に全通する「海の道(マリーンロード)」がある。
「シルク・ロード」の名はドイツの地理学者リヒトホーヘンの記述に由来する。
(シルクロードの東の基点西安)「中国 都市と建築の歴史 張在元編著」より
(唐時代の長安の位置)
唐の都長安は隋の文帝が築いた大興城が基礎になっている。唐代の長安城の外郭の東西の長さは9721m、南北8651mにおよび、人口100万の壮大な都市であった。
唐代の長安の各通りは直線で、緑化を重んじ、道幅は皇城と宮城の間は幅員220m、朱雀大通りは150~155m、東西方向の大通りは39~120m、南北25~134mであった。
宮殿は広壮で、仏寺・仏塔が林立し、城北には緑多き禁苑、城南には芙蓉園と緑豊かな都市景観をあたえたであろう。
そして、この都市を目指して東アジア一帯からの進貢の使節、シルクロードやステップロードからも人が集まり、一大国際都市となった。
(西安のシンボル大雁塔)
(華清池)
春寒賜浴華清池 春寒くして浴を賜う 華清池
温泉水滑洗凝脂 温泉の水滑らかにして 凝脂を洗う(白居易ー長恨歌より)
華清池は西安の北方30㌔の驪山(秦始皇帝の墓のあるところ)の麓にあり、歴史は古く西周の時代には離宮がつくられ、始皇帝も利用したといわれる。
唐の玄宗のころ後宮の美女三千人擁する中、寵愛は楊貴妃一人にあつまり、545年からは玄宗は長安に戻ることなく華清池に留まることが多かったという。
長恨歌は詠う
春宵苦短日高起 春宵苦だ短く 日高くして起く
従此君主不早朝 此より 君王早朝せず
玄宗は自らの浴場「蓮華湯」をつくらせ、楊貴妃は「海棠湯」で温泉を浴したがこのような暮らしは長くは続かなかった。唐王朝の滅亡につながる「安禄山の乱」が起こるのである。
(玄宗が使用した「蓮華湯」)
(楊貴妃が使用した「海棠湯」)
(西安より敦煌へー河西回廊など)
(嘉峪関)
(河西回廊を連なる烽火台ー遠景)
(東の玄関敦煌附近図)
(敦煌)
敦煌は「絹の道」の東の玄関であることはつとに有名なことである。中でも井上靖の小説『敦煌』で一躍世間に知れ渡る。
敦煌は甘粛省北西部の18万の人口(漢族が殆ど)の町で、かって前漢の武帝が置いた河西四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)の最も西に位置し、匈奴への護りとして玉門関・陽関の二関をおいた。
長安(現西安)を起点とした道は、ヨーロッパへとつながっている。敦煌の周辺には郊外の鳴砂山の断崖に掘られた石窟群の総称莫高窟(千仏洞)があり、約千年間にわたり、絢爛たる仏教文化が花咲き、20世紀になり、シュタイン(英)・ぺリオ(仏)・大谷探検隊(日)・ロシアの探検隊が壁画・経典・仏具などを海外に持ち出して紹介し、「20世紀最大の発見」の一つに数え垂れた。(前3探検隊を「中国三大文化財泥棒」という向きもある。)
その結果として、敦煌学という一分野も設定された。
(莫高窟ー俯瞰)
(莫高窟の文物を外国探検隊に売り渡した王道士)「東洋文庫蔵」
(鳴砂山・月牙泉)
鳴砂山は敦煌南5キロにあり、月牙泉は鳴砂山の北麓にあり、三日月型の泉で景勝
シルク・ロードとは古来からの中国と西アジア・ヨーロッパをつなぐ文物の行き交った内陸ルートをいう。ほかには古いルートはモンゴル高原と南ロシアとを結ぶ「草原の道(ステップロード)」やおくれて紀元前後に全通する「海の道(マリーンロード)」がある。
「シルク・ロード」の名はドイツの地理学者リヒトホーヘンの記述に由来する。
(シルクロードの東の基点西安)「中国 都市と建築の歴史 張在元編著」より
(唐時代の長安の位置)
唐の都長安は隋の文帝が築いた大興城が基礎になっている。唐代の長安城の外郭の東西の長さは9721m、南北8651mにおよび、人口100万の壮大な都市であった。
唐代の長安の各通りは直線で、緑化を重んじ、道幅は皇城と宮城の間は幅員220m、朱雀大通りは150~155m、東西方向の大通りは39~120m、南北25~134mであった。
宮殿は広壮で、仏寺・仏塔が林立し、城北には緑多き禁苑、城南には芙蓉園と緑豊かな都市景観をあたえたであろう。
そして、この都市を目指して東アジア一帯からの進貢の使節、シルクロードやステップロードからも人が集まり、一大国際都市となった。
(西安のシンボル大雁塔)
(華清池)
春寒賜浴華清池 春寒くして浴を賜う 華清池
温泉水滑洗凝脂 温泉の水滑らかにして 凝脂を洗う(白居易ー長恨歌より)
華清池は西安の北方30㌔の驪山(秦始皇帝の墓のあるところ)の麓にあり、歴史は古く西周の時代には離宮がつくられ、始皇帝も利用したといわれる。
唐の玄宗のころ後宮の美女三千人擁する中、寵愛は楊貴妃一人にあつまり、545年からは玄宗は長安に戻ることなく華清池に留まることが多かったという。
長恨歌は詠う
春宵苦短日高起 春宵苦だ短く 日高くして起く
従此君主不早朝 此より 君王早朝せず
玄宗は自らの浴場「蓮華湯」をつくらせ、楊貴妃は「海棠湯」で温泉を浴したがこのような暮らしは長くは続かなかった。唐王朝の滅亡につながる「安禄山の乱」が起こるのである。
(玄宗が使用した「蓮華湯」)
(楊貴妃が使用した「海棠湯」)
(西安より敦煌へー河西回廊など)
(嘉峪関)
(河西回廊を連なる烽火台ー遠景)
(東の玄関敦煌附近図)
(敦煌)
敦煌は「絹の道」の東の玄関であることはつとに有名なことである。中でも井上靖の小説『敦煌』で一躍世間に知れ渡る。
敦煌は甘粛省北西部の18万の人口(漢族が殆ど)の町で、かって前漢の武帝が置いた河西四郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)の最も西に位置し、匈奴への護りとして玉門関・陽関の二関をおいた。
長安(現西安)を起点とした道は、ヨーロッパへとつながっている。敦煌の周辺には郊外の鳴砂山の断崖に掘られた石窟群の総称莫高窟(千仏洞)があり、約千年間にわたり、絢爛たる仏教文化が花咲き、20世紀になり、シュタイン(英)・ぺリオ(仏)・大谷探検隊(日)・ロシアの探検隊が壁画・経典・仏具などを海外に持ち出して紹介し、「20世紀最大の発見」の一つに数え垂れた。(前3探検隊を「中国三大文化財泥棒」という向きもある。)
その結果として、敦煌学という一分野も設定された。
(莫高窟ー俯瞰)
(莫高窟の文物を外国探検隊に売り渡した王道士)「東洋文庫蔵」
(鳴砂山・月牙泉)
鳴砂山は敦煌南5キロにあり、月牙泉は鳴砂山の北麓にあり、三日月型の泉で景勝
by takano-kk
| 2005-09-28 00:30