2005年 12月 09日
『ケーテ・コルヴィッツ展』(紹介) |
この度、2006年2月10日~4月9日県立美術館で標記の展示が行われます。ケーテ・コルヴィッツは第一次大戦では息子ペーター、第二次大戦では孫を失い、ナチス下のドイツで反骨の反戦・平和を貫き通し、投獄こそされなかったが、作品の展示は禁止され、1945年ナチス・ドイツ政権の崩壊を見ずして、敗戦直前に亡くなった天才的な女性芸術家です。本欄では、不慣れで、見当違いを覚悟でその作品と時代を紹介します。
(展示ポスター)
*上写真ー「女と死んだ子ども」 下写真ー「ケーテ・コルヴィッツ自画像」
(ケーテ・コルヴィッツ・ミュージアム・ベルリン)
(ケーテ・コルヴィッツ1890年頃の肖像写真)
ケーテ・コルヴィッツ(旧姓シュミット)(1867~1945)は東部プロイセンのケーニヒスベルクの町に左官のマイスター(親方)カール・シュミットを父に、ケーテ・ループを母に生れた。ここで彼女の思想の基層部分関わる、両親の成育暦について述べたいと思う。
父親は根っからの左官ではなかった。彼は苦学して大学に学び、法律学を修めて判事補の職を得たが、カイゼルのヴィルヘルム2世と宰相ビスマルクの専制的人民支配に疑問を感じて職を辞し、改めて左官の技を勉強して「親方(マイスター)」に転職した人物であった。
母方の方も独特の生き方をした一族であった。それは母の父ユリウス・ループはドイツにおける最初の自由宗教の牧師であった。1840年代の後半はフランス革命後の自由主義・国民主義の高まりはドイツにも及び、ドイツロマン派の高まりの中、文学ではハイネらが専制政治に立ち向かっていたが、1848年の3月革命が挫折すると、一転して専制の嵐が吹き荒れ、父ユリウスはそれに抵抗した一人であった。
二人の邂逅が如何なるものかは浅学にしてわからないが、この二人を近づける要因は醸成されていたようである。
ケーテは兄とケーニヒスベルクの町を流れるプレーゲル河の畔の広い家で幼児期を過ごした。
父の左官の技術は、ただ壁を塗るだけではなく、レンガを積んで家を建てる仕事から、その家々の浮彫り石膏彫刻も仕事の内で、かなり高度な美術センスを要したものでケーテも生れた時からその環境の下にあったのである。
ケーテの画才を育む上で忘れられないのは母親ケーテの絵心であった。母は古今の絵の大家の絵の模写を娘にみせて絵心をそそった。
ケーテが14歳になり、父カールの下で働いていた銅版職人の一人が、石膏について素描の方法を教え始め、やがて銅版画の創り方にまで及び17歳まで続いた。
やがて、父はこの娘の才能を花開かせるべく兄の就学先のベルリンへと旅立たせた。
ベルリンで師事した教師はシャウフェルというスイス人であった。彼はケーテの画歴の中で基礎部分の重要な存在であった。彼はケーテの才能をすばやく見抜き彼女の教育に傾注したが、画想としては*クリンガーの影響を受け、彼女の絵を「クリンガーの絵のようだ」とシャウフェルをして言わしめたほどであった。
*クリンガー(1857~1920)は写実主義からベルリンでは印象派の作家で知られ、 独自の色彩の使い手で知られていた。のち彫刻に転じる。
シャウフェルの慰留にもかかわらずケーニヒスベルクに帰った彼女は、師に恵まれないク、今度はミュンヘンで画業の修業に入った。
この時代のミュンヘンはフランス印象派の影響が強く、彼女は旧来のドイツ画壇が現代生活へ目を向けることが少ないことを痛感し、あに語らって「コムポニール倶楽部」を結成したといわれる。そして自らの才能の中には銅版画の適性を認めて、塗ること即ち絵具による表現よりも、スケッチ・銅版画に自己の領域をこの時代に見出したという。
1890年、ケーニヒスベルクに帰った彼女は小さなアトリエを構えて、若い女性には珍しく白と黒で周辺の貧しい人々や港町に暮らす人々の暮らしを描写し始めた。
ケーテ(24歳)は1891年、兄の友人で健康保険医であったカール・コルヴィッツと結婚し、ベルリンに移住した。カールは真に労働者のための医師たらん志した医師であった。当時のドイツは産業革命の急激な進展で、創出された労働者の劣悪な生活環境は社会問題であり、革命の機運を生んでいた。
ケーテは92年に長男ハンス、96年に次男ペーターを出産したが、結婚にさいして彼女の父は家庭に入る彼女に画業を捨てるよう忠告するが、彼女はそれを拒み、カールの月賦診療所での赤裸々な人間像を見つめ、描く焦点を磨いていった。
1897年ケーテは初めての版画集『織匠』を発表し、これを機に家庭に入ることを望んでいた父シュミットは彼女の仕事を認め、ケーテも父の姿に感動を覚えている。
*G,ハウプトマン(1862~1946・ノーベル文学賞受賞者)の代表作といわれる戯曲『織匠』は1892年に発表され、ドイツのシレジェン地方の織匠達が工場主らの過酷な扱いに抵抗した事件を激化したもので、その芝居を観たケーテはハウプトマンに会いに行っている。ハウプトマンはケーテの印象を「露のあるバラの花のように新鮮な若い女性であるということと、非常につつましく自分の芸術については一言も語らず、しかもどこかに人の注目をひくものをもっている婦人であった」といったと言う。(宮本百合子「ケーテ・コルヴィッツの画業」より)
ケーテの版画集『織匠』はハウプトマンの戯曲の上演から4年後の1897年にだされた。下の「相談」は灯りの下の四人の男の生活の苦悩を炙り出したような光芒はケーテの並々ならぬ技巧の高さを見ることが出来る。
この展覧会の委員会は全会一致でこの作品に銀牌を贈る事を決めるが、皇帝ヴィルヘルム2世はこれを許さず却下した。
(織匠)六枚の内(第3枚「相談」)
(踏みにじられし者たちー亡霊と柱に縛りつけられた裸婦)銅版画 1900年初
(正面向きの自画像)1904年リトグラフ新潟県立美術館・万代島美術館蔵
(連作『農民戦争』第一葉「耕す人」1906~7)エッチング
ドイツ対外文化交流研究所蔵
*ドイツ農民戦争
1524年~25年に西南ドイツを中心に起きた「ドイツ農民戦争」宗教改革者ルターの思惑を超えて、遅れたドイツ社会の覚醒運動に発展した。
フランスの「ジャックリーの乱」、イギリスの「ワット・タイラーの乱」と並びヨーロッパ近代社会への扉を開ける三大農民戦争とされる。
1905年は「血の日曜日」にはじまるロシアの1905年革命もあり、ドイツでもその衝撃は伝わり、民衆はドイツの現状打破をドイツ農民戦争に仮託した。
『農民戦争』の連作は1908年に発表され、ケーテは「ヴィラ・ロマーナ賞」を獲得した。この賞は一年間イタリアのフィレンツェに無料で招待されるという内容の賞であった。
この連作の中で「耕す人(鍬を牽く人)」は劇作家ハウプトマンに触発されたモティーフがこの時期の彼女の創作姿勢であったが、あと一つ、ビスマルク失脚後のドイツ社会民主党の台頭と、迫り来る三国(英・仏・露)協商(1907年成立)と三国(独・墺・伊)同盟(1882年成立)の全面対立と、急速な反戦勢力(ドイツ社会民主党や第二インターナショナルなど)の内部亀裂の拡がりが、彼女の心にもかげりを落としていつかもしれなかった。それが「耕す人」の必死の鋤を引く姿にシンボリックに描かれているといわれる。
(『農民戦争』「突撃」)
1910年フィレンツェから帰国し、1914年の第一次世界大戦開戦までの彼女は全く沈黙を守った。
(その時期の作品)
(死と女と子)1910頃 銅版画
(「子を抱く女」1910頃 ドイツ対外文化交流研究所蔵)
1914年サライエヴォ事件に端を発した第一次世界大戦がはじまった。この年の秋に彼女は次男ペーターを戦争でなくした。
これをきっかけに彼女の創作活動が再開された。
(「カール・リープクネヒト追悼」1919年)
カール・リープクネヒト(1871~1919)はドイツ社会民主党創立者の一人、ヴィルヘルム・リープクネヒトの子で、ライプチヒに生れて弁護士となり、1906年「軍国主義と反軍国主義」を著して投獄された。出獄後社会民主党の国会議員となり、大戦中(14年)ドイツ社会民主党の党議拘束(軍事国債発行賛成)に反対して、脱党してローザ・ルクセンブルグとともに「スパクタルクス団」を結成して革命運動を継続し、16年ベルリン・ポツダム広場での反戦デモの指導者として投獄された。1918年ドイツ革命の勃発で釈放され、ドイツ共産党を組織した。そして社会民主党の臨時政府と対立して逮捕されて、1919年1月15日暗殺された。
ケーテは政党活動とは関わらなかったが、反戦主義者のカールに共感を抱いていたのだろか下の作品を発表している。
(ワイマール共和国とケーテ)
ドイツ革命で共和制ドイツが誕生した。しかし、普仏戦争で莫大な賠償金を収奪されたという恨みを持つフランスを先頭とした英などの戦勝国がドイツに課した賠償金は天文学的な数字で、そのためドイツ社会はどん底状態になった。
その中で、ケーテは貧困社会への眼差しを逸らそうとはしなかった。
1919年ケーテは女性初のプロイセン芸術アカデミー会員に選出され、教授の称号を与えられた。
しかし、ケーテの反戦・貧困救済の姿勢は変えなかった。その間に、ケーテは『戦争』(1920~23)、『勤労する人々』(1925)などを世に送っている。
(『両親』(1921~22)ドイツ対外文化交流研究所蔵)
1927年ケーテ・コルヴィッツは盛大に60歳の誕生日を祝われた。かってカイゼルのヴィルヘルム2世から「どぶ石芸術の画家」と蔑まれた彼女は、今やドイツの国民的芸術家として賞賛の中でのお祝いであった。
しかし、1929年に始まるアメリカ・ウォール街発の「世界大恐慌」は最大の債権と失業者を抱えたドイツに大きな衝撃を与えた。
大恐慌は左右の政治対立をおおきくし、中でもナチズムの台頭はドイツの命運をおおきく揺さぶった。
1933年中産階級・資本家・軍部によって支持されたヒトラー率いる「ナチス」は全権委任法で独裁を確立した。
この政権下では、抽象芸術や前衛芸術などは「退廃芸術」として排斥され、ケーテも1935年、ナチス入党を勧誘されたが、拒否したため事実上作品製作・発表の途は閉ざされた。
その頃、中国では魯迅がケーテの業績に着目し、新しい文化の成果としてケーテの作品を自ら手がけて刊行している。その序文は当時中国にあって紅軍の取材を続けていたアグネス・スメドレイの序文が付けられた。
*アグネス・スメドレー(1892~1950)アメリカの女性評論家、第一次大戦中ニュー・ヨークでインド独立運動を支持して禁固刑をうけ、渡独したあとフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者として中国で12年間紅軍の取材をして、「女一人大地を行く」や紅軍の将軍朱徳の半生を描いた「偉大なる道」を書く。
(『ピエタ』ブロンズ像 1937~38 ドイツ対外文化交流研究所蔵)
1939年ドイツはポーランドに侵略をはじめ、第二次世界大戦ははじまる。1942年ケ-テは東部戦線で孫のペーターを戦死でうしなった。
ノルマンディー上陸作戦に成功した連合軍は1945年春にドイツ本土に侵入する中、1945年4月22日、ケーテはドレスデン近郊モーリッツブルクで戦争の終結を見ることなく永眠した。(5月8日ドイツ降伏)
ケーテ・コルヴィッツの死が伝えられると、アメリカ、ニュー・ヨークのセント・エチエンヌ画廊でケーテの追悼展覧会が開かれ、未発表の木版画などの作品・遺作が展示された。
(展示ポスター)
*上写真ー「女と死んだ子ども」 下写真ー「ケーテ・コルヴィッツ自画像」
(ケーテ・コルヴィッツ・ミュージアム・ベルリン)
(ケーテ・コルヴィッツ1890年頃の肖像写真)
ケーテ・コルヴィッツ(旧姓シュミット)(1867~1945)は東部プロイセンのケーニヒスベルクの町に左官のマイスター(親方)カール・シュミットを父に、ケーテ・ループを母に生れた。ここで彼女の思想の基層部分関わる、両親の成育暦について述べたいと思う。
父親は根っからの左官ではなかった。彼は苦学して大学に学び、法律学を修めて判事補の職を得たが、カイゼルのヴィルヘルム2世と宰相ビスマルクの専制的人民支配に疑問を感じて職を辞し、改めて左官の技を勉強して「親方(マイスター)」に転職した人物であった。
母方の方も独特の生き方をした一族であった。それは母の父ユリウス・ループはドイツにおける最初の自由宗教の牧師であった。1840年代の後半はフランス革命後の自由主義・国民主義の高まりはドイツにも及び、ドイツロマン派の高まりの中、文学ではハイネらが専制政治に立ち向かっていたが、1848年の3月革命が挫折すると、一転して専制の嵐が吹き荒れ、父ユリウスはそれに抵抗した一人であった。
二人の邂逅が如何なるものかは浅学にしてわからないが、この二人を近づける要因は醸成されていたようである。
ケーテは兄とケーニヒスベルクの町を流れるプレーゲル河の畔の広い家で幼児期を過ごした。
父の左官の技術は、ただ壁を塗るだけではなく、レンガを積んで家を建てる仕事から、その家々の浮彫り石膏彫刻も仕事の内で、かなり高度な美術センスを要したものでケーテも生れた時からその環境の下にあったのである。
ケーテの画才を育む上で忘れられないのは母親ケーテの絵心であった。母は古今の絵の大家の絵の模写を娘にみせて絵心をそそった。
ケーテが14歳になり、父カールの下で働いていた銅版職人の一人が、石膏について素描の方法を教え始め、やがて銅版画の創り方にまで及び17歳まで続いた。
やがて、父はこの娘の才能を花開かせるべく兄の就学先のベルリンへと旅立たせた。
ベルリンで師事した教師はシャウフェルというスイス人であった。彼はケーテの画歴の中で基礎部分の重要な存在であった。彼はケーテの才能をすばやく見抜き彼女の教育に傾注したが、画想としては*クリンガーの影響を受け、彼女の絵を「クリンガーの絵のようだ」とシャウフェルをして言わしめたほどであった。
*クリンガー(1857~1920)は写実主義からベルリンでは印象派の作家で知られ、 独自の色彩の使い手で知られていた。のち彫刻に転じる。
シャウフェルの慰留にもかかわらずケーニヒスベルクに帰った彼女は、師に恵まれないク、今度はミュンヘンで画業の修業に入った。
この時代のミュンヘンはフランス印象派の影響が強く、彼女は旧来のドイツ画壇が現代生活へ目を向けることが少ないことを痛感し、あに語らって「コムポニール倶楽部」を結成したといわれる。そして自らの才能の中には銅版画の適性を認めて、塗ること即ち絵具による表現よりも、スケッチ・銅版画に自己の領域をこの時代に見出したという。
1890年、ケーニヒスベルクに帰った彼女は小さなアトリエを構えて、若い女性には珍しく白と黒で周辺の貧しい人々や港町に暮らす人々の暮らしを描写し始めた。
ケーテ(24歳)は1891年、兄の友人で健康保険医であったカール・コルヴィッツと結婚し、ベルリンに移住した。カールは真に労働者のための医師たらん志した医師であった。当時のドイツは産業革命の急激な進展で、創出された労働者の劣悪な生活環境は社会問題であり、革命の機運を生んでいた。
ケーテは92年に長男ハンス、96年に次男ペーターを出産したが、結婚にさいして彼女の父は家庭に入る彼女に画業を捨てるよう忠告するが、彼女はそれを拒み、カールの月賦診療所での赤裸々な人間像を見つめ、描く焦点を磨いていった。
1897年ケーテは初めての版画集『織匠』を発表し、これを機に家庭に入ることを望んでいた父シュミットは彼女の仕事を認め、ケーテも父の姿に感動を覚えている。
*G,ハウプトマン(1862~1946・ノーベル文学賞受賞者)の代表作といわれる戯曲『織匠』は1892年に発表され、ドイツのシレジェン地方の織匠達が工場主らの過酷な扱いに抵抗した事件を激化したもので、その芝居を観たケーテはハウプトマンに会いに行っている。ハウプトマンはケーテの印象を「露のあるバラの花のように新鮮な若い女性であるということと、非常につつましく自分の芸術については一言も語らず、しかもどこかに人の注目をひくものをもっている婦人であった」といったと言う。(宮本百合子「ケーテ・コルヴィッツの画業」より)
ケーテの版画集『織匠』はハウプトマンの戯曲の上演から4年後の1897年にだされた。下の「相談」は灯りの下の四人の男の生活の苦悩を炙り出したような光芒はケーテの並々ならぬ技巧の高さを見ることが出来る。
この展覧会の委員会は全会一致でこの作品に銀牌を贈る事を決めるが、皇帝ヴィルヘルム2世はこれを許さず却下した。
(織匠)六枚の内(第3枚「相談」)
(踏みにじられし者たちー亡霊と柱に縛りつけられた裸婦)銅版画 1900年初
(正面向きの自画像)1904年リトグラフ新潟県立美術館・万代島美術館蔵
(連作『農民戦争』第一葉「耕す人」1906~7)エッチング
ドイツ対外文化交流研究所蔵
*ドイツ農民戦争
1524年~25年に西南ドイツを中心に起きた「ドイツ農民戦争」宗教改革者ルターの思惑を超えて、遅れたドイツ社会の覚醒運動に発展した。
フランスの「ジャックリーの乱」、イギリスの「ワット・タイラーの乱」と並びヨーロッパ近代社会への扉を開ける三大農民戦争とされる。
1905年は「血の日曜日」にはじまるロシアの1905年革命もあり、ドイツでもその衝撃は伝わり、民衆はドイツの現状打破をドイツ農民戦争に仮託した。
『農民戦争』の連作は1908年に発表され、ケーテは「ヴィラ・ロマーナ賞」を獲得した。この賞は一年間イタリアのフィレンツェに無料で招待されるという内容の賞であった。
この連作の中で「耕す人(鍬を牽く人)」は劇作家ハウプトマンに触発されたモティーフがこの時期の彼女の創作姿勢であったが、あと一つ、ビスマルク失脚後のドイツ社会民主党の台頭と、迫り来る三国(英・仏・露)協商(1907年成立)と三国(独・墺・伊)同盟(1882年成立)の全面対立と、急速な反戦勢力(ドイツ社会民主党や第二インターナショナルなど)の内部亀裂の拡がりが、彼女の心にもかげりを落としていつかもしれなかった。それが「耕す人」の必死の鋤を引く姿にシンボリックに描かれているといわれる。
(『農民戦争』「突撃」)
1910年フィレンツェから帰国し、1914年の第一次世界大戦開戦までの彼女は全く沈黙を守った。
(その時期の作品)
(死と女と子)1910頃 銅版画
(「子を抱く女」1910頃 ドイツ対外文化交流研究所蔵)
1914年サライエヴォ事件に端を発した第一次世界大戦がはじまった。この年の秋に彼女は次男ペーターを戦争でなくした。
これをきっかけに彼女の創作活動が再開された。
(「カール・リープクネヒト追悼」1919年)
カール・リープクネヒト(1871~1919)はドイツ社会民主党創立者の一人、ヴィルヘルム・リープクネヒトの子で、ライプチヒに生れて弁護士となり、1906年「軍国主義と反軍国主義」を著して投獄された。出獄後社会民主党の国会議員となり、大戦中(14年)ドイツ社会民主党の党議拘束(軍事国債発行賛成)に反対して、脱党してローザ・ルクセンブルグとともに「スパクタルクス団」を結成して革命運動を継続し、16年ベルリン・ポツダム広場での反戦デモの指導者として投獄された。1918年ドイツ革命の勃発で釈放され、ドイツ共産党を組織した。そして社会民主党の臨時政府と対立して逮捕されて、1919年1月15日暗殺された。
ケーテは政党活動とは関わらなかったが、反戦主義者のカールに共感を抱いていたのだろか下の作品を発表している。
(ワイマール共和国とケーテ)
ドイツ革命で共和制ドイツが誕生した。しかし、普仏戦争で莫大な賠償金を収奪されたという恨みを持つフランスを先頭とした英などの戦勝国がドイツに課した賠償金は天文学的な数字で、そのためドイツ社会はどん底状態になった。
その中で、ケーテは貧困社会への眼差しを逸らそうとはしなかった。
1919年ケーテは女性初のプロイセン芸術アカデミー会員に選出され、教授の称号を与えられた。
しかし、ケーテの反戦・貧困救済の姿勢は変えなかった。その間に、ケーテは『戦争』(1920~23)、『勤労する人々』(1925)などを世に送っている。
(『両親』(1921~22)ドイツ対外文化交流研究所蔵)
1927年ケーテ・コルヴィッツは盛大に60歳の誕生日を祝われた。かってカイゼルのヴィルヘルム2世から「どぶ石芸術の画家」と蔑まれた彼女は、今やドイツの国民的芸術家として賞賛の中でのお祝いであった。
しかし、1929年に始まるアメリカ・ウォール街発の「世界大恐慌」は最大の債権と失業者を抱えたドイツに大きな衝撃を与えた。
大恐慌は左右の政治対立をおおきくし、中でもナチズムの台頭はドイツの命運をおおきく揺さぶった。
1933年中産階級・資本家・軍部によって支持されたヒトラー率いる「ナチス」は全権委任法で独裁を確立した。
この政権下では、抽象芸術や前衛芸術などは「退廃芸術」として排斥され、ケーテも1935年、ナチス入党を勧誘されたが、拒否したため事実上作品製作・発表の途は閉ざされた。
その頃、中国では魯迅がケーテの業績に着目し、新しい文化の成果としてケーテの作品を自ら手がけて刊行している。その序文は当時中国にあって紅軍の取材を続けていたアグネス・スメドレイの序文が付けられた。
*アグネス・スメドレー(1892~1950)アメリカの女性評論家、第一次大戦中ニュー・ヨークでインド独立運動を支持して禁固刑をうけ、渡独したあとフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者として中国で12年間紅軍の取材をして、「女一人大地を行く」や紅軍の将軍朱徳の半生を描いた「偉大なる道」を書く。
(『ピエタ』ブロンズ像 1937~38 ドイツ対外文化交流研究所蔵)
1939年ドイツはポーランドに侵略をはじめ、第二次世界大戦ははじまる。1942年ケ-テは東部戦線で孫のペーターを戦死でうしなった。
ノルマンディー上陸作戦に成功した連合軍は1945年春にドイツ本土に侵入する中、1945年4月22日、ケーテはドレスデン近郊モーリッツブルクで戦争の終結を見ることなく永眠した。(5月8日ドイツ降伏)
ケーテ・コルヴィッツの死が伝えられると、アメリカ、ニュー・ヨークのセント・エチエンヌ画廊でケーテの追悼展覧会が開かれ、未発表の木版画などの作品・遺作が展示された。
by takano-kk
| 2005-12-09 16:44