2006年 01月 29日
旧新憲法二題(未完成) |
(旧憲法アラカルト)
明治維新政府樹立の大黒柱は右大臣岩倉具視であった。太政官制から内閣制と統治体制を変換して、憲政体制へと移行する重要な段階で1883(明治13)年7月19日死去した。(欧州で憲法の勉強をしていた伊藤博文は8月3日帰国)
1885(明治18)年、内閣制度が発足し伊藤を総理大臣とした薩長藩閥内閣が誕生して、1888(明治21)年4月憲法と皇室典範の審議を目的に枢密院を設置しいとう自ら首相から議長に転じてた。
*現在日本では皇室典範が憲法審議に先行して審議に入りかけている。この時(明治22年)皇位継承は男系男子に限ると規定した。
憲法草案は既に1886(明治19)年伊藤に依頼されて井上毅(熊本出身)が着手していた。彼は政府顧問として招聘されていたドイツ人学者ヘルマン・ロエスレルとアルベルト・モッセを相手に甲・乙二通りの案を作成した。それは天皇大権を明文化しない(甲)とする(乙)という違いがあった。
8月から金沢の夏島(横須賀市夏島町)の伊藤の新築の別荘で秘密裏に伊藤・秘書官の伊東巳代治と金子堅太郎に甲乙、ロエスエル案を携えた井上毅が参加して8月中旬にいわゆる「夏島草案」が完成した。
(夏島と四名の審議者)
その後、十月草案、翌1988年2月の二月草案が明治天皇に奉呈され、若干の書き入れの後、最終稿として枢密院に出されるが、上記4名でのみ草稿は推敲されたといって良い。(審議内容は徹底した秘密主義で審議主義であった)
(枢密院での憲法案審議絵)
(宮中での欽定憲法公布式)
(憲法発布日の前夜)(「ベルツの日記」より)ー発布日(2月11日の2日前の日記)
「東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ。」
(異議を唱える人達は居た!)
(安達吟光・『大日本頓知研法発布式』)1889(明治22)年2月28日
『頓知協会雑誌』
下の図は宮武外骨が主宰した時局諷刺雑誌「頓知協会雑誌」2月28日号の巻頭に掲載されたものであるが、明らかに発布された憲法のパロディとなっている。例えば第一章第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は「大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」などと逐条憲法本文をなぞっている。
当局はこれを「不敬罪」で捉えて、発行人の外骨は最高刑の重禁錮3年、罰金100円。絵の安達吟光は重禁錮1年、罰金50円。印刷人の徳山鳳州は重禁錮8ヶ月、罰金30円の思い刑をうけた。
(欽定大日本帝国憲法発布祝賀仮装行列の面々)1889(明治22)年2月11日
(モース博士のコレクション)ー『百年前の日本』より
(祝賀風景)当時の錦絵
(祝賀行事の担い手達)
発布日前夜は晴れ着調達で呉服屋の反物が払底したとか、旗屋では日の丸がうりきれたとか、町の飾りつけ、祝賀行列の計画や奉祝門があちこちに立てられる話で持ちきったが、フランス人画家ビゴーもこのあたりを細かくスケッチしている。下のスケッチは祭典の世話役の一人を描いているが、企画者の多くは町の世話役や学校の校長などで、この人物もその一人(校長風)である。
(日本国憲法)
(厚木飛行場に降り立つマッカーサー)
(戦艦ミズーリ上での降伏文書調印式)
(日本国憲法最終草案稿と第一次吉田内閣)ー『日本の歴史』集英社21巻より
(昭和天皇による日本国憲法の公布書)1946(昭和21)年11月3日
明治維新政府樹立の大黒柱は右大臣岩倉具視であった。太政官制から内閣制と統治体制を変換して、憲政体制へと移行する重要な段階で1883(明治13)年7月19日死去した。(欧州で憲法の勉強をしていた伊藤博文は8月3日帰国)
1885(明治18)年、内閣制度が発足し伊藤を総理大臣とした薩長藩閥内閣が誕生して、1888(明治21)年4月憲法と皇室典範の審議を目的に枢密院を設置しいとう自ら首相から議長に転じてた。
*現在日本では皇室典範が憲法審議に先行して審議に入りかけている。この時(明治22年)皇位継承は男系男子に限ると規定した。
憲法草案は既に1886(明治19)年伊藤に依頼されて井上毅(熊本出身)が着手していた。彼は政府顧問として招聘されていたドイツ人学者ヘルマン・ロエスレルとアルベルト・モッセを相手に甲・乙二通りの案を作成した。それは天皇大権を明文化しない(甲)とする(乙)という違いがあった。
8月から金沢の夏島(横須賀市夏島町)の伊藤の新築の別荘で秘密裏に伊藤・秘書官の伊東巳代治と金子堅太郎に甲乙、ロエスエル案を携えた井上毅が参加して8月中旬にいわゆる「夏島草案」が完成した。
(夏島と四名の審議者)
その後、十月草案、翌1988年2月の二月草案が明治天皇に奉呈され、若干の書き入れの後、最終稿として枢密院に出されるが、上記4名でのみ草稿は推敲されたといって良い。(審議内容は徹底した秘密主義で審議主義であった)
(枢密院での憲法案審議絵)
(宮中での欽定憲法公布式)
(憲法発布日の前夜)(「ベルツの日記」より)ー発布日(2月11日の2日前の日記)
「東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ。」
(異議を唱える人達は居た!)
(安達吟光・『大日本頓知研法発布式』)1889(明治22)年2月28日
『頓知協会雑誌』
下の図は宮武外骨が主宰した時局諷刺雑誌「頓知協会雑誌」2月28日号の巻頭に掲載されたものであるが、明らかに発布された憲法のパロディとなっている。例えば第一章第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は「大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」などと逐条憲法本文をなぞっている。
当局はこれを「不敬罪」で捉えて、発行人の外骨は最高刑の重禁錮3年、罰金100円。絵の安達吟光は重禁錮1年、罰金50円。印刷人の徳山鳳州は重禁錮8ヶ月、罰金30円の思い刑をうけた。
(欽定大日本帝国憲法発布祝賀仮装行列の面々)1889(明治22)年2月11日
(モース博士のコレクション)ー『百年前の日本』より
(祝賀風景)当時の錦絵
(祝賀行事の担い手達)
発布日前夜は晴れ着調達で呉服屋の反物が払底したとか、旗屋では日の丸がうりきれたとか、町の飾りつけ、祝賀行列の計画や奉祝門があちこちに立てられる話で持ちきったが、フランス人画家ビゴーもこのあたりを細かくスケッチしている。下のスケッチは祭典の世話役の一人を描いているが、企画者の多くは町の世話役や学校の校長などで、この人物もその一人(校長風)である。
(日本国憲法)
(厚木飛行場に降り立つマッカーサー)
(戦艦ミズーリ上での降伏文書調印式)
(日本国憲法最終草案稿と第一次吉田内閣)ー『日本の歴史』集英社21巻より
(昭和天皇による日本国憲法の公布書)1946(昭和21)年11月3日
by takano-kk
| 2006-01-29 18:17