2005年 05月 10日
朝鮮人陶工の来日 |
(秀吉の朝鮮侵略の発端)
文禄元(1592)年~慶長3(1598)年にかけて、豊臣秀吉が明征服を目指して起こした朝鮮侵略を日本では『文禄・慶長の役』(朝鮮では『壬申・丁酉の倭乱』、中国では『万暦朝鮮の役』といいます。)といいます。
ことの発端は秀吉の関白就任時からはじめる明の征服から東アジア征服構想にはじまる。秀吉は対馬宗氏に命じて、朝鮮に明征討の道案内を命じる使節を派遣させたが、宗氏はその使命を歪曲して朝鮮に家臣柚谷康広を「日本国王使」にしたてて、秀吉への慶賀の通信使派遣を申し出るが、秀吉を国の簒奪者とみなした朝鮮側は無視した。業を煮やした秀吉は更に宗氏を強要したため宗氏は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多の豪商島井宗室を伴い、改めて国土統一した秀吉への祝賀の通信使の来日を要請した。要請を受けた朝鮮は祝賀の通信使黄允吉、金誠一らを派遣するが、先の「征明嚮導」を承った遣使と思い込んだ秀吉は両通信使に「征明嚮導」の文書をだした、これを小西行長と宗義智は「仮途入明」(明に入りたいので朝鮮の道を貸して欲しい)という内容にすり替えて送ったが、朝鮮の拒絶にあった。征明の準備(名護屋城の築城など)を整えていた秀吉は怒って出兵を命じた。
よく見ると宗義智と小西行長がこの間に介在して両国間の意志疎通を歪曲していることである。
宗氏は対馬の置かれた位置、日朝間の仲介貿易の利を握っており、片や行長は堺の商人勢力の代理人役である。
小西行長の父立左(りゅうさ)は堺の奉行職で長男如清(じょせい)がその後を継ぎ、次男行長は船奉行から肥後宇土14万石を領して倭寇を始めとする東シナ海の海上貿易のコントロールを図る役割りをしている。また宗義智は行長の女婿でもある。このようなことから、博多商人を抑えて東アジア商権を掌握しようとする堺商人勢力の意図も見え隠れしている。
しかも立左は名護屋城にあっては常に秀吉の傍に侍し、金庫番の役をしている。
また、千利休も西国大名達と茶の指導を通じて緊密な関係にあり、黒田氏も鍋島氏も親密な仲であり、しかも千利休自身堺の支配層の出であった。
そこから読み取られることは、なんとか秀吉の野望を自己のコントロールで、東シナ海貿易の利を得ようとする、堺商人勢力の意図がうかがえるのではなかろうか。
そこから行長の所領八代の麦島城(1619年地震で崩壊)が港機能を持つ、海城であることの意味がわかってくる。
また、秀吉の部将たちが陶工を連れて帰る(凡てが拉致かどうかは議論のあるところ)などがあったが、戦場の習いで(古今東西)戦利品は当然持って帰ったことは事実であるが、獲られたほうは当然「略奪された」と主張するのも当然であろう。
(陶工の来日)
国定韓国中学校教科書(日本語訳ー明石書店刊)を見ると、「日本は、朝鮮より活字・書籍・絵画などの文化財を略奪していき、また、陶磁器の技術者と学者を連れていった。これは日本の文化発展に大きな助けになった。」と記述している。(200ページ)
高校の教科書は、「そして東アジアの文化的後進国で日本は、わが国から活字、書籍、絵画などの文化財を略奪し、学者や技術者を拉致していった。朝鮮の性理学もこの時に日本に伝えられ、日本文化の発展に多大の影響を与えた。」(186ページ)
以上中・高の教科書には、秀吉軍は文化財・陶磁器工・学者などを拉致(中学では連れて行く)して、それが日本文化の発展に役立っている、という趣旨の記述がなされている。
そのことは概ね事実としてとらえていいのではないかとおもわれる。しかし、日本の近世史の専門家の中には、「拉致」に抵抗を感じる人たちが居るのも事実である。この附近が「歴史認識」の摺り合わせを要するところである。
そして、朝鮮からもたらされた文物と技術者たちの来日は日本の文化に多大な貢献をしたことも事実であろう。
そして、「文化的後進の日本に対して先進国であった朝鮮という」部分は事実であるが、植民地支配をうけた朝鮮側としては、ここではどうしても記述しておきたいことも理解しておかねばならない。
文禄の役では、日本はかなり広範な軍事展開をしている。
(高校日本史用語集に見る来日陶工)
実教出版という教科書会社が出した副教材の『必携日本史用語ー三訂版』(私的ですが、20年ほど前からこの用語集の編集に関わっておりまして、私は原始・古代の担当(総括)です)に、
西日本の「お国焼」の中での渡来した陶工の名前が出ているので紹介しておく。
上野焼(釜山から尊楷「加藤清正」)、萩焼(李敬「毛利輝元」)、平戸焼(巨関「松浦鎮信」ー後三川内で開窯)、高取焼(八山(八蔵)ー「黒田長政」)、有田焼(李参平「鍋島家家臣」)、薩摩焼(金海(和名星山忠次)、朴平意、ー「島津義弘」)
一部私が補った。念のために申しあげるが、教科書には李参平を除いて人名はほとんど出ていない。
文禄元(1592)年~慶長3(1598)年にかけて、豊臣秀吉が明征服を目指して起こした朝鮮侵略を日本では『文禄・慶長の役』(朝鮮では『壬申・丁酉の倭乱』、中国では『万暦朝鮮の役』といいます。)といいます。
ことの発端は秀吉の関白就任時からはじめる明の征服から東アジア征服構想にはじまる。秀吉は対馬宗氏に命じて、朝鮮に明征討の道案内を命じる使節を派遣させたが、宗氏はその使命を歪曲して朝鮮に家臣柚谷康広を「日本国王使」にしたてて、秀吉への慶賀の通信使派遣を申し出るが、秀吉を国の簒奪者とみなした朝鮮側は無視した。業を煮やした秀吉は更に宗氏を強要したため宗氏は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多の豪商島井宗室を伴い、改めて国土統一した秀吉への祝賀の通信使の来日を要請した。要請を受けた朝鮮は祝賀の通信使黄允吉、金誠一らを派遣するが、先の「征明嚮導」を承った遣使と思い込んだ秀吉は両通信使に「征明嚮導」の文書をだした、これを小西行長と宗義智は「仮途入明」(明に入りたいので朝鮮の道を貸して欲しい)という内容にすり替えて送ったが、朝鮮の拒絶にあった。征明の準備(名護屋城の築城など)を整えていた秀吉は怒って出兵を命じた。
よく見ると宗義智と小西行長がこの間に介在して両国間の意志疎通を歪曲していることである。
宗氏は対馬の置かれた位置、日朝間の仲介貿易の利を握っており、片や行長は堺の商人勢力の代理人役である。
小西行長の父立左(りゅうさ)は堺の奉行職で長男如清(じょせい)がその後を継ぎ、次男行長は船奉行から肥後宇土14万石を領して倭寇を始めとする東シナ海の海上貿易のコントロールを図る役割りをしている。また宗義智は行長の女婿でもある。このようなことから、博多商人を抑えて東アジア商権を掌握しようとする堺商人勢力の意図も見え隠れしている。
しかも立左は名護屋城にあっては常に秀吉の傍に侍し、金庫番の役をしている。
また、千利休も西国大名達と茶の指導を通じて緊密な関係にあり、黒田氏も鍋島氏も親密な仲であり、しかも千利休自身堺の支配層の出であった。
そこから読み取られることは、なんとか秀吉の野望を自己のコントロールで、東シナ海貿易の利を得ようとする、堺商人勢力の意図がうかがえるのではなかろうか。
そこから行長の所領八代の麦島城(1619年地震で崩壊)が港機能を持つ、海城であることの意味がわかってくる。
また、秀吉の部将たちが陶工を連れて帰る(凡てが拉致かどうかは議論のあるところ)などがあったが、戦場の習いで(古今東西)戦利品は当然持って帰ったことは事実であるが、獲られたほうは当然「略奪された」と主張するのも当然であろう。
(陶工の来日)
国定韓国中学校教科書(日本語訳ー明石書店刊)を見ると、「日本は、朝鮮より活字・書籍・絵画などの文化財を略奪していき、また、陶磁器の技術者と学者を連れていった。これは日本の文化発展に大きな助けになった。」と記述している。(200ページ)
高校の教科書は、「そして東アジアの文化的後進国で日本は、わが国から活字、書籍、絵画などの文化財を略奪し、学者や技術者を拉致していった。朝鮮の性理学もこの時に日本に伝えられ、日本文化の発展に多大の影響を与えた。」(186ページ)
以上中・高の教科書には、秀吉軍は文化財・陶磁器工・学者などを拉致(中学では連れて行く)して、それが日本文化の発展に役立っている、という趣旨の記述がなされている。
そのことは概ね事実としてとらえていいのではないかとおもわれる。しかし、日本の近世史の専門家の中には、「拉致」に抵抗を感じる人たちが居るのも事実である。この附近が「歴史認識」の摺り合わせを要するところである。
そして、朝鮮からもたらされた文物と技術者たちの来日は日本の文化に多大な貢献をしたことも事実であろう。
そして、「文化的後進の日本に対して先進国であった朝鮮という」部分は事実であるが、植民地支配をうけた朝鮮側としては、ここではどうしても記述しておきたいことも理解しておかねばならない。
文禄の役では、日本はかなり広範な軍事展開をしている。
(高校日本史用語集に見る来日陶工)
実教出版という教科書会社が出した副教材の『必携日本史用語ー三訂版』(私的ですが、20年ほど前からこの用語集の編集に関わっておりまして、私は原始・古代の担当(総括)です)に、
西日本の「お国焼」の中での渡来した陶工の名前が出ているので紹介しておく。
上野焼(釜山から尊楷「加藤清正」)、萩焼(李敬「毛利輝元」)、平戸焼(巨関「松浦鎮信」ー後三川内で開窯)、高取焼(八山(八蔵)ー「黒田長政」)、有田焼(李参平「鍋島家家臣」)、薩摩焼(金海(和名星山忠次)、朴平意、ー「島津義弘」)
一部私が補った。念のために申しあげるが、教科書には李参平を除いて人名はほとんど出ていない。
by takano-kk
| 2005-05-10 00:34